敵国に嫁いだ王女様、戦争回避のためにタイムリープしまくります!

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「――っ!?」  身を起こし、ぶはぁ、と息を吐く。慌てて周りを見回すと、そこはクラウスの宮殿にある私の寝室だった。その窓際に置かれたソファに、私は腰を下ろしている。  戻った……のか。  とりあえず〝ここ〟の時間を確認する。目の前のテーブルには開かれたままの日記帳。そのページには、〝ここ〟の日付と、〝ここ〟までに起きた出来事が私の文字で記されている。それらの内容に目を通し、〝ここ〟がいつかを確認する。――間違いない。〝ここ〟は、最後に指輪を嵌めた日時。少なくとも、あの夏の宮殿にある使用人の小部屋ではない。  よかった。  窓越しの夜空を見上げながら、ほっと溜息をつく。ちゃんと、無事に戻ることができた。何より、あの場から逃れることができた。ロルフに連れ込まれ、犯されかけた、あの狭くて暗い小部屋から…… 「……っ」  不意に全身が震えだし、慌てて自分を抱きしめる。これは……恐怖? 確かに、ロルフに組み敷かれる最中は彼が怖くてたまらなかった。彼の、わかりやすく一方的な暴力が。逆に言えば、それが取り除かれた今はもう怯える必要などない。大丈夫、もう大丈夫。危機は無事に回避できた。だから――なのに。 「う、うう」  不意に視界が緩んで、熱いものがぼろぼろと頬にこぼれ落ちる。落ち着け。頼むから落ち着いてくれ。あいつはもう、ここにはいない。奪われる心配もない。大丈夫。大丈夫だから……  大丈夫なものか。  わかっていた。この国において、私はただの無力な異邦人にすぎないのだと。味方などどこにもいない、たとえ殺されたとして、戦争の口火に体よく利用されるだけの存在なのだと。それを今更のように突きつけられて、怒ることすらできない己の無力さがただ怖い。  いや、冷静になれ。  力で勝てないのなら、せめて頭を、頭を使え。  一つ深呼吸をし、日記帳に目を戻す。この夜は確か、そう、〝二周目〟で初めてクラウスと同じベッドに就いた日。夫婦の営みこそなかったが、翌朝は二人で朝食を摂り……そう、そこで出されたじゃがいもとベーコンのスープが、やけに美味しかったことを覚えている。その後は、何とかクラウスと距離を詰める機会を伺い――いや。本当は、いざとなれば過去に戻ってやりなおせばいいと、なすべきことをずるずると後回しにしていた。妻の務めから目を逸らして。  ……その結果が、あれだ。  思い出すだに吐き気がこみ上げる記憶。だが、否、だからこそ、あの場で入手した情報は一つも取りこぼしてはいけない。きちんと記憶し、記録し、次があれば次に託す。祖国を、ルカを救うために――その意味では、ロルフのカスパリアに対する思惑、そして、王位への野心を確認できたことは大きい。  それらを余さず手帳に書き込み、机の引き出しにしまい込む。無論、あの二重底の。  さっそく明日にでも、この件を手紙にしたためよう。検閲の可能性を考えると、エデルガルドの郵便網を頼るのは危険だ。在エデルガルドの信頼できるカスパリア商人を呼び出し、商品の注文を装って密かに託した方がいい。  そんな私の思考を、不意のノックが遮る。 「誰!?」  つい鋭くなる声。どうやらまだ神経が昂っているらしい。落ち着けと改めて自分に言い聞かせ、今一度、大きく深呼吸する。 「……どなた?」  今度はできるだけやんわりと尋ねる。返事は、すぐには返らなかった。やきもきさせるような沈黙がしばし続き、それから、ようやく聞き取れるかという小声で「クラウスだ」と返事がある。 「入っても、構わないか」 「ふ……夫婦の部屋ですもの。どうぞ」 「ありがとう」  やがて、薄く開いた戸口から寝間着姿のクラウスが現れる。その顔を目にした瞬間、こめかみがかっと熱くなるのを私は感じた。あの舞踏会で私がロルフに連れ去られたとき、この男は、兄の暴挙を引き留めることすらしなかった。名ばかりとはいえ一応は夫。愛はなくとも暴漢の狼藉から妻を守るぐらいはすべきだろう。なのにこの男は、おそらく、私が連れ去られたことにすら気付いていなかった。私を見てもいなかった。  そう、こいつはそういう男だ。  そんな私の感情など知らないクラウスは、相変わらず私をきつく睨み据えたまま、部屋の入口に立ち尽くしている。 「いいのか、本当に」 「……何の話です?」 「その、一緒に眠っても」  そう問いかけるクラウス自身、眉間の皺で拒絶をあらわにしている。前回もそうだった。そこまで私が嫌なら、じゃあ、なぜ私を娶った。 「どうぞ」  負けじと冷たく言い捨て、ベッドに潜りこむ。するとクラウスは、呆れるほどのろのろと私に従ってきた。ロルフの話に同意するのは腹立たしいが、役立たず、という指摘は確かに間違っていない。  ああ、そうだ。  そもそもあのロルフが増長したのは、クラウスが夫としてあまりにもだらしなかったからだ。侍女にも嗤われるほどの奥手。舞踏会では妻を放置し、自分の趣味が合う相手とばかり話をする。挙句、後にカスパリアを亡ぼす当人にさえ「両国のために務めを果たせ」と尻を叩かれる始末だ。  とはいえ、人間の性根はそう簡単には変わらない。長い目で見れば変えられるのかもしれない。が、あいにく私には時間がないのだ。 「殿下」  身を起こし、そのままの勢いでクラウスにのしかかる。自分が何をしているのか、これから何をしようとしているのか、正直、あまり深く考えたくない。  一方のクラウスは、余程驚いたのだろう、紫の瞳を見開いたまま呆然と私を見上げている。 「……何を、」 「抱いてください。私を」  そう。子供ができれば、さすがのロルフも私を手籠めにしようとは思わないだろう。あんな男に孕まされるぐらいなら、まだ、クラウスに抱かれた方が耐えられる。どちらも愛が欠けていることに変わりはない。が、クラウスの方は、まだ、夫婦の営みだと割り切ることができる。  そうだ。割り切れ。  この男に抱かせて、胤を貰って子を孕んで――それが両国を繋ぐ架け橋になるのなら。起こるはずの戦争が回避されて、それで、祖国が、ルカが救われるのなら。 「ミラ」  不意にクラウスが手を伸ばしてくる。それが、不覚にもあの野蛮なロルフの手を思い出させる。ただ無造作に奪い、踏み躙るだけの―― 「ひっ!?」  気付くと、ほとんど無我夢中でベッドから飛びのいていた。乱れる呼吸。がくがくと膝が震え、身体ごと床にくずおれる。 「……うぅ……」  駄目だ。頑張らなくちゃ。  この人の子供を産んで、平和のいしずえになって、それで、それで――なのに震えは止まらない。誰にも助けを求めようのない暗がりで、ただの女体として――欲望のはけ口として貪られる恐怖と屈辱。  ああ。  いっそ、この忌々しい記憶もなかったことにできればいいのに。でも、それでは、いずれ降りかかる脅威を避けられない。きっとこれからも、辛い出来事に遭遇しては、それを避けるべく過去へと引き返すのだろう。未来での辛い記憶を携えて。  それは、いい。最終的に望む未来に至れるのなら。  でも記憶だけは、そのたびに確実に積み重なってゆく。  辛くて、痛くて、惨めで苦しくて、そんな記憶が、きっとこれから、何度も、何度も重なってゆく。それだけは、いくら過去をやり直しても変わらない。  それでも、やり遂げなくては。  祖国を、ルカを救うためにも。だから。だから―― 「ミラ」  目の前に、跪く男の気配がある。  おそるおそる顔を上げる。目の前で、クラウスが私の顔をじっと覗き込んでいた。  ……あれ?  その目に、私は違和感を抱く。これは、敵意の目じゃない。ロルフに本物の憎悪を突きつけられた今だからわかる。相変わらず目つきは鋭く、眉間には深い皺が刻まれている。でも、この眼差しは…… 「すまない」 「……え?」 「誰かに、子供を急かされたのか。だとしたら、焦るな、焦らなくていい。研究も一緒だ。焦っても成果は……あ、いや、今のは……忘れてくれ」  そしてクラウスは、のろのろと立ち上がり、部屋を出て行こうとする。  その背中を、私は慌てて引き留めた。 「待って!」  なぜ。そう私は自問する。もうクラウスに抱かれるどころじゃない。むしろ、こうなっては同じベッドに入ることすら難しいだろう。なのに、なぜ引き留めてしまったのか。  この人の何が、私に呼び止めさせたのか。  わからない。でも。 「あ……あの、急かされたわけでは。ただ……両国のために、必要だと、思いまして、それで、」 「両国のため」 「は、はい」 「そうか、君は、そのためだけに私の元に嫁いだのだったね」 「えっ? え、ええ……違うのですか、殿下は」  返事はなかった。ただ、聞き流された感じはない。言葉は確かに伝わっていて、返すべき答えに窮している。そんな沈黙。  やがて。 「そうだな、平和は、大切だ」  それだけ言い残すと、今度こそクラウスは部屋を出て行った。
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