1/3
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ

 暑い……。  まだクーラーの点いていない放課後の教室で、鳴子あかりは目の前に座る先生の話を聞きながら心の中で呟いた。  開いた窓からは心地よいとは言い難い潮のにおいがする。  高校の目の前は海だが、教室からはその眺望を見ることはできない。  なのに西日が海に反射した光は差し込んできて眩しいくらいだ。  入学した時は海が目の前! 青春っぽい! と思っていたのに、広い道路に阻まれたそこに行ったのは、一年以上経った今でも片手で数えられる程度だ。  むしろ潮風で髪の毛は傷むし、何より風の強さに驚いた。  海の近くは良いことばかりではないと、今では実感している。 「……子、鳴子、聞いているのか?」 「あっ……はい、聞いています」  ぼーっとしていたのがバレたあかりは、視線を先生に慌てて戻した。 「本当に就職でいいんだな?」 「はい」 「……まあ、まだ少し時間があるから、家の人とも話をして……」  と言われても、あかりの気持ちはもう決まっている。  大学まで行っても、これといってしたい勉強はないし、早く働きに出れば家計の助けになるからだ。 「先生は大学に行ったほうが良いと思いますか?」  先程の話ぶりからすると、全面的に賛成という感じではなさそうだ。  昨年からの付き合いではあるが、この先生に限っては進学率がというタイプではないはずだ。  あまり教師像の型にはまっていない人と認識していたので、あかりはふと思った疑問を投げた。 「ああ、学生生活は楽しいぞ! サークル活動、飲み会、バイト、飲み会……」 「勉強がひとつもないじゃないですか! しかも飲み会が二回!」 「それだけ楽しかったってことだ!」  胸を張って言うことではなかろうに……。  しかもこれは進路面談だ。  まあ、こういった型破りな性格の先生だから、あかりをはじめ慕っている生徒は多い。  今年は担任になったが、元々あかりが所属している映画研究同好会――映研の顧問だ。  活動は週一回の上映会、しかも上映作品は先生好みのマイナー映画ばかりだというのに、部員がそれなりにいるのは先生の人望だろう。 「とまあ、冗談はおいといて……」  先生が言うと冗談に聞こえないのですが……という言葉は飲み込んでおいた。 「高卒で就職は最近求人も減ってきているし、進学を考えてみるのも手だということだ」  そのことは、あかりも調べてみてわかってはいた。  だから公務員試験も検討している。 「で、やりたい仕事とかはないのか?」  そう問われると、あかりは眉間にシワを寄せて黙り込んだ。  あかりには夢というものがない。  なりたい職業、就きたい仕事という周囲の友人たちが語っている夢がない。 「強いて言えば、うちの店を存続させる……ということでしょうか」  あかりの家は古本屋を営んでいる。  曽祖父が始めた店はとても居心地が良いが、決して商売繁盛しているわけではない。  でもそこを残しておくために、あかりは早く外に働きに出たほうが良いだろうと考えたのだ。 「店というと古本屋か。そこで働くというのは?」 「そこまで利益はないので、うちに就職というのはないですね」  それが大きな問題だ。  立地は商店街ではなく密集していない住宅街で、ましてやフランチャイズ店でもない昔ながらの古本屋の儲けは大したことがないのだ。  だから外に働きに出て、仕事から帰った後に店の手伝いをしようと考えていたのだが……。 「あー、副業NGの会社は結構あるから調べたほうがいいぞ」 「えっ? 家の手伝いでも副業になるんですか?」 「そう取られる場合もあるらしい」 「そんなぁ……」  思いもしなかったことを告げられ、あかりは戸惑った。  唯一といっていいほどのあかりの望みは、店を存続させるために仕事をしながら店を細々と開いていこうと思っていたからだ。 「まあ、そういう場合もあるから、叔父さんと今後のことを含めて話をしたほうがいいぞ」 「……はい」 「もしかしたら、大学に行っている四年の間に解決策が見つかるかもしれないし」  いや、それはないだろう。  あかりの両親は六年前に事故で亡くなり、叔父に引き取られた。  その叔父は今、大学院生だ。  たしか二十九歳だっただろうか。  家の収入は店の売り上げしかないはずだから、若くして自分を育ててくれた叔父の助けをしたくて就職を考えている。  しかし店も続けていきたい。  あかりにとっても、叔父の聖にとっても、とても大切な場所だから。  先生の言うとおり、大学に行けばあと五年は店を続けられる。  だが、その学費はかなりかかるはずだ。  あかりの成績では公立の大学は難しいし、奨学金というのも現実的ではない。  その上、また五年後に同じ問題に直面するのは目に見えている。 「うーん……」 「もし受験するなら、英語はどうにかしないとだな」  さらに追い討ちをかけられた。  あかりの成績は決して良くない。  だからといって悪いわけでもない。  中の上の時もあれば、中の下の時もある。  ほぼ真ん中の成績だ。  だが英語はとりわけ苦手なのだ。  他の教科はムラがあれど、ある程度の点数が取れるのに、英語だけはどうしてもダメなのだ。  そして受験にはもれなく英語の試験がある。  担任の担当教科でもあるので、先生は苦笑いだ。 「英語の克服もあるから、受験するなら早く決めたほうがいいぞ」  はい、終わりとばかりに先生はノートを閉じると、教室の外に向かって「次は?」と声をかけた。 「ありがとうございました」  ぺこりと頭を下げて礼を言うと、あかりは椅子の横に置いておいたバッグを手に取って立ち上がる。  と同時に教室のドアが勢いよく開いた。 「あかり! 早く終わってくれてありがとう! 先生、私は声優になる。以上、終了!」  嵐のように入ってきたのは友人の近藤春日だ。  ばたばたと音を立てて入ってきたので、大袈裟な言い回しではない。 「近藤、落ち着け。まずは座れ」 「だって部活に早く行きたいんだもん。もう決まってるんだからいいじゃん」  春日はあかりと違って、昔からなりたい職業がある。  そのために演劇部に入って部活を頑張っているから、この面談も早く終わらせたいと言っていた。  だが、さすがにこれはないだろう。 「春日、はい、座って!」  あかりは今しがた自分が腰掛けていた椅子に春日を座らせると「バイバイ」と言って教室を後にした。
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!