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1.
音無紘也と鳳優の出会いは最悪だった。
初対面は音無の会社で、取引先の相手。契約を結ぶということで、契約書の案を確認するために上司と一緒に訪れたのが鳳。オールバックに意志の強そうな太い眉。応接室に通し、契約書に目を通した隣の柔和そうな上司は、内容を変更する箇所はないと判断し、音無に締結しましょうと伝えると、鳳が突然口を挟んだ。
「音無様。ここの一文ですが、この内容では弊社は契約を受けかねます」
ギョッとしたのは隣にいた鳳の上司だ。何を突然、と慌てながら鳳から内容をこっそりと聞くと、顔が青くなっていた。
「こ、これはちょっと、契約内容を社内で検討させていただけますかね。弊社の法務担当部署に確認しますからね。いやなに、そんなに時間はかからないかと」
ポケットから出したハンカチで額に浮かんだ汗を拭っている。呆気に取られたのは音無の方だ。二人のやり取りを見ていてこれではどちらが上司か分からない。
音無は手元の契約書の案を今一度眺める。多少強引すぎるのではないか、と音無が自身の上司に確認をとった場所。そこが鳳が指摘した一文だった。
『あっちの担当は、ぼーっとしたやつだから気がつかないよ』
そんなことを言っていた自分の上司を苦々しく思った音無。確かに上司はボンクラっぽいが部下がめんどくさそうだぞ、と心の中で音無は呟いた。
そんな初対面ののち、何度か鳳とやりとりすることがあった。主に契約の内容についてだったが、どれも的確な指摘で、音無の上司はすっかり青くなっていた。
「やっべえな、こんなに出来るやつがいるなんて、聞いてなかった」
頭をかきながら、音無に泣きつく上司にため息をつく。しかし相手ができるとはいえ、こちらも弱気に出るわけにもいかない、と鳳の顔を思い出しながら内容を確認した。
鳳のメール文章はいちいち嫌味ったらしい。この数週間で夢に鳳が出てきたくらいだ。電話で話したほうが早い、と連絡しようにも『電話では証拠が残りませんから』と返信が来た時には、音無はさっさと契約を締結してこいつと縁を切りたいとまで思った。
賢くて知識もあるやつなんだろうが、こんな無礼なやつ、社会的に孤立しているに違いない!と音無はイライラしながらキーボードを叩いていた。
そして試行錯誤の上、一ヶ月後に双方納得の上で締結された契約。
「ではこちらで」
やれやれこれで鳳から逃げられる、とホッとした音無は来社した鳳とその上司に『さっさとお帰りください』と言わんばかりに、笑顔で挨拶をした。お互いの上司同士が挨拶をしている間、鳳がじっとこちらを見て、ツカツカと近寄ってくる。
「な、何か」
思わず仰反る音無に、鳳はふっと笑った。
「色々、お手間かけてしまいましたね。まさかこんなに時間かかるなんて思いませんでしたので。それにしても音無さん、もったいないですね、あなたほど仕事ができる方がここにいるなんて」
切長の鳳の目が一瞬光ったかと思うほどに鋭く、音無は言葉を失う。
「まあまたどこかでお会いするかもしれませんが。ありがとうございました」
その言葉は『もう会うこともねえよ』と変換されて音無の耳に残った。
二度と会うはずのない二人が再会してしまったのは、それから二週間後。出会った場所がまた最悪だった。
その日は金曜日の夜で、明日は休み。出張も残業もない。音無は久々に立ち寄ったバーの赤いドアの扉を開けた。銀座の路地の奥にある小さなこのゲイバーは昔ながらの少し落ち着いた雰囲気で、音無は気に入っている。カウンター席に座るとおしぼりが出てきて、その暖かさにホッとした。
「ご無沙汰ね、おーちゃん」
そう言ったママ(と言いながらも男性だ)はキセルで煙を吐きながら、音無に声をかける。
すると席をひとつ開けた場所にいた客がママの方を見た。それに気づいたママはあらあらと笑う。
「こちらもおーちゃんだったわねえ。おーちゃん同士、仲良くしたら?こちらのおーちゃんは最近来てくれてるの」
そうママが紹介した男はその顔を音無に向け、そしてお互いに固まってしまった。
「お、鳳さん?」
「音無さん」
指差しながらパクパクと口を開く二人に、ママはキョトンとした。
「あらあ、知り合い?なら話が早いわねえ。仲良く飲んでいきなさいな」
仲良く飲めるわけがない、と音無は思いながらもここで席を変えたり、帰ったりしたら自分が負けるような気がして、あえて鳳と一緒に飲むことにした。
我ながら訳のわからないプライドに、内心泣きそうだった。ただ、意外なのは鳳も席を立たなかったこと。
こいつも同じようなプライドを持ってるのか?と、モヤモヤしながら頼んだジントニックを口に含んだ。
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