1-1 よつば食堂

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1-1 よつば食堂

 彼らの出会いは、なんとも素っ気ないものだった。  春休み真っ只中の三月の終わり、その夜も雨宮(あまみや)翔太(しょうた)は三百円を握り締めて「よつば食堂」を訪れた。目当ては最も安い親子丼。この卵と鶏肉で身体が構成されているのではと思えるほど、彼はこれしか口にしなかった。いや、翔太にはそもそも三百円以上のものを買える金がなかった。  片側に四人がかけられる長机が五脚。天井の隅に小型テレビが吊り下げられた田舎っぽい飯屋が、安くて美味いと評判の食堂だった。その一角には今日も工事現場の作業着を着た男たちが五人程溜まり、仕事終わりのお喋りに花を咲かせていた。 「なあ翔太、おまえもそう思うよなあ!」  近くを通りかかった翔太に、馬鹿でかい声がかけられる。 「夜行列車ってのはいいもんだよ。ガキの頃みたいに、わくわくしちまう。何度乗っても飽きやしねえ。なあ」  作業着姿の初老の男だった。初老といえど日に焼けた肌はいたく健康的で、現役の作業員として十分の気概を持っている。藤本(ふじもと)(はじめ)という男は、その名から周囲に(げん)さんと呼ばれ親しまれていた。 「乗ったことないけど」  不愛想に呟く翔太の様子はいつものことで、元さんも周囲も気に留めることはない。 「今なら学割? とかいうの使えるんだろ。もったいねえぞ、若いうちにいろいろ行っとかねえと」 「金がないよ」  わっはっはと笑い合う男たちから離れ、翔太はカウンターの奥を覗き込む。「親子丼ください」といつもの台詞を口にする。  すぐさま、はいはいと明るい声と共に、ひょっこりと恰幅のいい女が姿を現した。五十半ばほどのエプロン姿の彼女は篠田(しのだ)悦子(えつこ)といい、元さん同様に悦っちゃんと呼ばれ親しまれている。料理人の旦那と数人のアルバイト共にこの店を切り盛りしている、働き者の女性だ。 「そういえば翔ちゃん、あんたもう中学の三年になるんよねえ」三の番号札を渡しながら、感慨深そうに悦子は言った。 「早いもんやなあ。最初見た時はこんなに小そうかったのに」水平にした手を自分の胸元にやる。「いつの間にか、大きゅうなったねえ。あとはもうちょっと太らなあかんよ」  身を乗り出して腕を叩いてくる。その手に百円玉を三枚乗せ、カウンター脇の水差しからコップに水を注ぐと、翔太は隅の席に腰を下ろした。  テレビの野球中継、男たちの談笑、食器を洗う水音。大人たちは騒々しいが、いつも翔太を気にかけてなにかと話しかけてくれる。時には三百円以上のものを奢ってくれることもある。よつば食堂は、彼にとっては随分と落ち着ける空間だった。  いつもと違うのは、それからのこと。  あと二週間で中学三年生になる痩せた身体に親子丼をかき込みながら、翔太はちらりと目線を上げた。がらがらと引き戸が開き、「いらっしゃい」と悦子が威勢のいい声をかける。
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