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平日のせいか観光客は少ない。姪っ子達は芝生の中に咲くオオイヌノフグリを見つけては楽しそうに摘み取っている。姉はその側に立ち、時折私を見て手を振った。
私は広場が見渡せる東屋の椅子に座ると、あたりを見回した。
古代であればここが嶋宮だ。あの辺りに苑池があり、桃林が広がっていたはず…でも今は、苑池もないし桃林もない…
切なさが胸に込み上げる。ふと、どこからか風に乗り花びらが飛んできた。地面に落ちた花びらを拾い上げる。
桃の花びら…
目を凝らして辺りを見ると、石舞台近くの柿畑の下にピンク色の桃の木が何本も生えているのが見えた。
二人の姪っ子達が今度は、空を舞う桃の花びらを掴もうと両手を広げている。
嶋宮での林臣との思い出が走馬灯のように蘇った。
…林臣…この場所で簪を挿してくれたわね…あの時、あなたはまだ十代の少年で横柄な態度が生意気で鼻持ちならなかった…私、あなたが蘇我入鹿だとは知らなくて噛みついたわね…
少年時代の彼のムスッとした顔が浮かび、思わずクスッと笑った。同時に手のひらの花びらの上に涙がぽたっと落ちた。私は飛鳥に居た時の癖で服の袖で涙を拭いた。
冬の夜、あなたの琴の音を初めて聞いた。私が酔った夜、あなたは文句を言いながらも私を担いで橘宮まで送ってくれた。夏の朝、一緒に蓮の花が開くのを見たわね。桃林の夜、あなたは私に好きだと告げた…いつも私を陰で守って、愛してくれた…
涙が頬を伝う。どれほど涙を流したら私の心は満たされるのだろう。どれほど時間がたったらあなたを忘れるのだろう…
あなた以上に私を愛する人間がこの世界に居るはずないのに…
いつの間にか服の袖が涙でびっしょり濡れていた。いっその事、体中の水分が全て抜け干からびて、花びらのようにどこか遠くへ飛んで行ってしまえばいいのに…
気づくと姪っ子達は広場を抜け、橘寺に向かう歩道を歩いている。私は朦朧とした頭で立ち上がると、彼女達を追うように歩き始めた。
姪っ子達は飛鳥川に沿った歩道を、キャッキャとはしゃぎながら風に飛ぶ花びらを追っている。
途中二人は立ち止まると、飛鳥川に身を乗り出した。何か流されたのだろうか?二人の視線の先を見ると、川沿いに生える木の枝に白い布が引っかかっている。私は小走りで二人のもとに向かった。
「危ないよ!」
私が到着する前に、笠を被った袈裟姿の男性が近寄り、ガードレールから身を乗り出していた姪っ子の体を引き揚げた。
「そんなに身を乗り出していたら危ないよ、川に落ちちゃう」
「でも、ハンカチが飛んでその枝に引っかかっちゃって…」
上の姪っ子が真っ赤な顔をして、川沿いに生えた木の枝を指さしながら答えた。袈裟姿の男性は、
「君たちじゃ届かないよ、僕が取るから」
と言い、手に握っていた金剛杖を伸ばして枝にかかったハンカチを取った。ハンカチを受け取った姪っ子が「ありがとう」と言うと、彼は微笑んだ。
やっと追いついた私は息をきらしたまま、
「す、すみません。助かりました。ありがとうございました」
と言い、頭を下げた。男性は「いいえ」と答えると私に向かい微笑んだ。
笠から覗いた男性は20代半ばくらいの青年だろう。私がもう一度「ありがとうございます」と言い頭を下げると、彼の持つ金剛杖の先がキラッと光ったのが見えた。目を凝らして見ると、丸い紅色の瑪瑙の石が紐で繋がれ、杖の先端からぶるさがっていた。
…この石…
思わず彼に尋ねた。
「突然で失礼だとは思いますが、その瑪瑙の石を見させてもらってもいいですか?」
彼は驚き、一瞬躊躇した様子だったが、
「はい、いいですよ」
と言い、杖から慎重に石を取り外し私の手のひらに置いた。
瞬きもせずに石の表面を見つめた。私が持っていた瑪瑙と同じ、橘の葉と実の模様が施されている。鼓動が一気に早くなり、震える手で石を裏返した。
Rinshin
&
Touka
刻まれた文字を見てすべての思考がストップした。息が出来ない…どうしてここに…
私は、呆然と立ちすくんだあと声を振り絞り彼に尋ねた。
「こ、これはあなたの物ですか?」
彼は頭を振り、
「先祖代々続く石ですが、私の物ではなく兄の物です」
「お兄様?…」
「はい、とても貴重で神聖な石なので年に一度、この季節にしか外に出しません。本当はこんな風に人目に触れさせてはいけないのですが…」
男性ははにかむように笑い頭をかいた。
私はもう一度瑪瑙の石を見つめた。
土の中で長い年月をかけて出来たこの瑪瑙の色は、数千年たってもその輝きを失わないという…そう、だから私の想いをこの石に込め、あなたのもとに置いてきたのよ…林臣、あなた木箱を受け取ってくれていたのね…
全ての誤解が解けていたのかも…と思うと胸のつかえがとれ彼への愛しさだけが込み上げた。
でも、手紙を読んだはずなのに、なぜ歴史がそのままなの…
「実は、面白い話があるんです…」
男性が口を開いた。
「実はこの瑪瑙、数十年前に先祖代々伝わるお墓の奥深くから見つかったんです。その時に、一緒に古文書も入っていたのですが、それによると当時のこの瑪瑙の持ち主であるうちの先祖が、先に死んでしまった妻の後を追うように、死んでいったそうです。死に際もこの石だけは手放さず、固く握りしめていたとかで…」
その瞬間、全身の力が抜け私は道路の端にしゃがみこんだ。
林臣…あなた自分が殺されるって知ってたのに、なぜ…
私は両手で口を押え声を押し殺した。本当は狂ったように泣き叫びたかった。男性が慌てて、私の体を持ち上げようとしたが足に全く力が入らなくて立てなかった。
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