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 怜は、溝口教授室で作業に追われていた。  共同研究の資料の期限が差し迫っているとの理由でどうしても大隈の手を貸して欲しいと教授が泣き落としてきたのだ。美羽と出会う前の以前の自分だったら、そんな泣き落としに屈することなく容赦なく切り捨てていたと思う。だが、美羽の影響を受けたのかわからないが何故か見放すこともできず、渋々承諾していた。だが、それはやはり間違えていたとパソコンと対峙しながら思う。  研究資料に目を通せば通すほど、自らの胸の中心にあった火に薪をくべるように燃え上がりそうになる。本来無用なものなのにも関わらず。望んでいた炎じゃないはずなのに、その勢いは衰えるどころか増していくばかりで戸惑いに苛まれていた。  そこに火に油を注ぐように、余計な資料を持ち込んできて教授の暑苦しい熱弁を振るわれて、その度に意思とは裏腹にどんどん引き込まれそうになっていく。それが教授の作戦だということも薄々感づいている。だから、怜は教授にこれ以上巻き込もうとしても無意味だという意味を込めて、その場で苦言を呈していた。 「共同研究の話、お断りしたはずですよね? 他の者に手伝わせたらどうですか?」 「正式な答えは旅行最終日だ」  と、教授から幼稚な言い訳をされた上に 「お前の代役はいない」  とぴしゃりと言い放たれる。ため息をつくしかない怜は、他に逃れる手はないかと考えた末に「そんなことより卒論をやらせてほしい」とも訴えたが「卒論はどうとでもしてやる」といわれ、最後の逃げ道も塞がれてしまい黙り込むしかなかった。教授は、こうと決めたら梃子でも動かない。もう、反論したところで無用な体力を使うだけだとあきらめて淡々と資料に目を通し作業を進めているところに、やけに大きいだみ声が響いてきた。 「ちなみに、ゼミ旅行の二週間後だからな」  唐突な言葉に怜は手にしていたレポートを読みながら、興味のなさそうに教授に問うた。 「何がですか?」 「イギリス行の飛行機だよ」  手元の紙から怒りが弾けるように教授の方へ視線を移す。鋭い怜の目で、普段空気を読まない教授もさすがに目をむいているようだったが「念のための情報だよ」と笑って、逃げるように部屋を出て行った。  バタンと閉じられたドア。押さえていた感情の膜を打ち破る。  俺にどうしろっていうんだ。  ざわつく胸の内を堪えきれず、怜はレポートを机に叩きつけていた。  気付けばゼミの開始時間も迫り、どうしても溜まっていく鬱憤を踏み潰すようにして教室へと向かっていく。  怜が着く頃には、全員がすでに部屋に集まっていた。その中に美羽が文乃が話し込んでいる姿もあって、怜の沈んだ気持ちがほんの少しだけ浮上していく。  このところ、ほとんどの時間を研究室か教授室に籠りきりで、最近は美羽の顔を見ること自体もできていなかった。  そんな中授業は始まるが、時折揺れる美羽の背中ばかり気になった。華奢な背中がいつも以上に儚くみえて、どきりとする。最後に話したのは一週間前のゼミの終わりに数分言葉を交わした程度。まともに二人で会ったのは十日以上前。そのせいかもしれないと勝手に理由をつけていた。  時間は過ぎ、気付けば教授の締めの言葉が大きく響いていた。 「明後日はいよいよゼミ旅行だ。初日は花火に酒。そして、最終日にはきっと素晴らしい発表ができるはずだから、そちらも期待しておくように」  教授の視線が怜に向けられ、他のゼミ生達の意識も一斉に集まってくる。教授にどういうつもりだと睨んでやるが、教授は人の感情を読み取るのに欠陥のある人間であるために、それは伝わらず笑って「終了」の掛け声を発していた。    勝手なことを次々と……。沸々と沸く怒りを一つずつやり過ごしながら、早々に片付けて美羽を捕まえようとしたが、それよりも早く「大隈、この後の会議に出席してくれ」と邪魔が入ってくる。堪えきれず怒りを吐き出そうと口を開きかけたが、振り返ってきた美羽の笑顔で、何とか押し戻す。美羽は声には出さず「がんばって」と拳を小さく握ってくる。そのまま席を立ちその場を離れようとしている華奢な背中。いつものもののはずなのに、それ以上に細くなったように見えて、怜は慌てて呼び止めていた。  振り返った顔はいつもの美羽。気のせいだったのだろうか。  「忙しいんでしょ? 大丈夫?」  美羽の気遣いの言葉といつもと立場が逆になっている情けなさで、掠めた疑念は吹き飛んでいく。そのあとまた美羽が口を開きかけたが、大音量で「早くこい!」と教授の煩わしい声が遮ってきて、怜の眉間に皺が刻まれる。  ただでさえ人の気持ちに敏感な美羽はそんな珍しく感情を露呈している怜に「分かりやすすぎる」といって、笑っていた。いつもの透き通った声。怜の燻っていた火種を簡単に吹き飛ばし、あれだけ荒れ狂っていた波が凪いでいく。不思議だと思う。自分ではどうしても自制できなかったのに美羽が近くにいるだけでこんなにも穏やかになってゆく。その存在の大きさを改めて実感し、噛み締めていると、美羽はいった。 「私ね、明後日すごく楽しみにしてるの。一緒に花火見ようね。だから、頑張って」  さらりと言ってまた、いつもの笑顔を浮かべてくる。そこに、また教授の「早くしないと遅れる」と催促が飛んできて、凪いでいた水面はまたさざ波が立ちはじめる。こんなに感情に左右される自分自身にも苛立っていると。 「ほら、あそこの大先生がお呼びよ。早く行って」  やんわりと美羽は怜の背中を押していた。いくら抵抗してもしかたないでしょと諭されるように。  それに細やかながら抵抗するように怜は「明後日、迎えに行くよ」と背後にいる美羽に投げ掛けると首を横に振る髪がさらさらと揺れていた。 「ううん、怜お疲れでしょ? 顔にかいてあるわ。お迎えはいらないからぎりぎりまでよく休んで。それに二人一緒に集合場所まで行ったらどんな目でみられるか……」 「そんなの気にしなければいいだろ」  駄々をこねる子供のようにそんなこと言う怜に美羽はくすくす笑う。怜の背中に触れている美羽の手からくすぐったく伝わる振動が怜にも伝染して、ずっと張り詰めていた糸が和らいでいく。疲弊していた糸を紡ぎ直すように美羽の柔らかい声が聞こえてきた。 「母がね集合場所まで送ってくれることになってるの。もう私は子供じゃないっていうのに、きかなくて。本当に心配性で困る……だけど、今回は甘えようと思うの。何せずっと楽しみにしていた日なんだもの。行く前に疲れたら勿体ないからさ。だから、お迎えは不要。わかった?」  その時点で、いつもだったらその違和感に気付いていたはずだったと思う。だけど、教授の駄目押しの「早くしろ!」という言葉が邪魔をしてそれ以上、怜の頭は回らなかった。  「わかった。じゃあ、また明後日。気をつけて」  追い込まれていた気持ちが、美羽のお陰で和らいだ怜は、再び教授の後を追い始める。  怜の背中が美羽の手から離れていく。美羽は自分の手から離れていったぬくもりを取り零さないように胸の中心で大事に握りしめていた。
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