晴夜

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晴夜

「この世界には、鬼がいる。  人に見えないように、あるいは人に姿を変えて、鬼は存在する。  人を死に導き、人を喰らって、その生命を繋ぎ、鬼は生き続ける」 ※  そう僕に教えてくれたのが「晴夜」という不思議な力を持ち、鬼と戦っている男だ。  いや、僕が晴夜といっているだけで、真実の名前は違う。この先も知ることはないだろう。  でも、それでいい。  晴夜のことをソウイチロウ、リクあるいはレンと呼ぶ人を見たことがある。僕は知る必要がないし、知ったところでその重みに押しつぶされてしまうだろう。 「名には、強力な力がある。  名とは血であり、道であり、力の全てが刻まれる」  晴夜はそう言うと、僕に微笑みかけた。  鬼と戦う男の場合、真の名(晴夜は「真名」と言っている)を知られると命取りになるのだという…。 「真名を知られると、この仕事を続けていけない。  だから教えられないんだよ。  すまない」  と、晴夜は言った。  名前の重みを知らない僕には、その言葉は不思議でならなかったが、男の横顔には緊張感があった。  この目で鬼を見たことのない僕には遠く、踏み込んではいけない世界のようにも思えた。  だから僕は心の中で、男に相応しい名前を勝手につけて呼ぶことにした。 「鬼と戦う男」という言葉から浮かんだのは、有名な陰陽師である「安倍晴明」だった。安倍晴明が実際どういう方だったのか詳しくは知らないが、僕の中で何故かしっくりきた。それが、いけなかったのだろう。  それから僕は、心の中で「晴明」と呼ぶことにしたのだった。  だが、いつの日か心の声は声に出てしまうのだろう。  何か特別な事をしていたわけでもなく、ただ晴夜が珈琲をいれてくれた時だった。 「ありがとう、晴明」  と、僕はうっかり口にしたのだった。  男の動きが止まり、怪訝な顔で僕を見つめた。  珈琲のいい香りが立ちこめてはいたが、僕達の間をそれ以上に濃い微妙な空気が漂った。 「あっ…ごめん。  僕の中で…勝手にそう呼んでいたんだ」 「偉大な御方と同じ名で呼ぶのは、やめて欲しい」  と、男は言った。  怒ってはいなかったが、僕は自分の浅はかさを酷く後悔した。人間から神ともなった唯一の方と、同じ名で呼ばれるのは畏れ多い。もし僕が親に同じ名前をつけられたら、重圧で押し潰されてしまう。 「ごめん、やめるよ。  初めて会った時…そう、公園での小鬼を思い出したら…鬼から…安倍晴明のことが浮かんでさ。  それで…なんとなく…ごめん」 「あぁ、懐かしいな」  男はそう言うと、珈琲を一口飲んだ。  口元に涼しげな微笑みを浮かべ、窓を開けてベランダへと出て行った。  夜の涼しい風が入ってきて、カーテンがユラユラと揺れた。  僕も立ち上がりベランダへと出て、男の隣に立ち夜空を眺めた。  夜空は美しく、幾億もの星が輝いている。夜風に吹かれる男もまた綺麗だった。  その瞬間、僕は光の世界に目が釘付けになった。  晴明の「晴」は残したまま、鬼と戦う男は夜に活動することが多いので「夜」を合わせ、晴夜という名がユラユラと浮かんできた。 「なら…セイ…ヤはどうかな?  この夜空を見ていて、急に浮かんだんだけど」  僕がそう言うと、晴夜は笑ってくれた。了承してくれたということだろう。  晴夜はゆっくりと視線を僕に向けると、過去を懐かしむような瞳になった。 「あの時、あの場所で、小鬼がいなければ、こんな風に共に夜風に吹かれることもなかったのだろう。  私は、鬼を追い、殺しているというのにな。   それだけは、感謝しよう。  なんとも不思議なものだな」  晴夜がそう言うと、僕もあの頃に思いを馳せていった。 
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