聞いてない

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聞いてない

「…――っ」  それを見た途端、僕は夢を見ているのかと思った。  欠伸をこぼしてぼやけた視界で、その姿を捉えた瞬間に、眠気で微睡んでいた意識が覚醒する。それ程までに、目の前の美しく幻想的な光景はそう思わせてしまう。ただ僕は、口を阿呆のように大きく開くことしか出来なかった。  重い足取りで僕は、同じ制服を着た生徒の背中を追う。全く、どこまで歩くんだよ。薄暗い部屋に引きこもってネット住民化していたヒッキーに対してこの仕打ち。ただでさえ無駄にだだっ広い廊下に、入学早々溜息を吐く。  ――そう、今日からお目出度いことに僕は、全寮制男子校である天彗学園の高等部に通うことになった。    天彗学園は私立の男子校で、在学する生徒の殆どがお金持ちのご子息様達だ。きっと、不自由なく甘やかされて育ったボンボンばかりに違いない。特に、容姿や家柄など比べるのも烏滸がましいレベルが生徒会の連中やらで、教師よりも権力があるやらなんやら。  噂では、そんな容姿や、家柄の優れた人間を囲う親衛隊なるものがあるらしい。  持って生まれたものにあれこれ不満を言いたくはないが、こればかりは溜息を吐きたくなる。  何よりも僕が憂鬱なのが、ここが男子校ということだ。  これも噂で聞いたことにすぎないが、この学園は同性愛者が多いらしい。そりゃ、周りに男しか居ない閉鎖空間で過ごしていく内にそうなるのも不思議じゃない、かは分からないが。僕は普通に女の子と同じ空間に居たかった。  まあでも、校舎は綺麗だし部屋も広いし数年間我慢すればいい。  ――確かにそう、僕は思っていた。 「――きゃあああぁ!!」 「天羽様ーーー!!」  体育館のステージの壇上に上がった先輩に向かって、黄色い歓声が上がるまでは。  ここには女子生徒が居たのか、と思わせるような甲高い声に僕は顔を引き攣らせた。同時に、噂で聞いた親衛隊なるものが実在すると悟る。  今となっては、この学園に入学したことに後悔しかない。食堂で出される料理が絶品な上に無料、さらに両親に頼み込まれて入学したら推しの限定のフィギュアを入学祝に勝ってあげるなどと、その他諸々の手厚い待遇に釣られた自分に呆れる。同性愛も恋愛も自由だが、僕はごめんだ。毎日こんな思いをすると最初に分かっていたら、絶対に僕は引きこもり生活を続けていた。僕には、暗くて陰気な場所がお似合いだ。 「……はぁ」  ――さて、一体どれほどお綺麗な御顔をなさっているので。  憂鬱な気分を振り払うように、僕も"天羽様"とやらの御姿を拝もうじゃないか、と顔を壇上に向ける。腰から伸びたすらりとした長い足は、平凡な僕とはかけ離れていた。赤が少し混じったようなグレーの髪は珍しく、美人とはこの人のことを言うのだろうなと思った。  悔しいが、確かに歓声を上げたくなるような綺麗な人だ。決して僕はしないが。  ただ、その歓声は暫くして騒めきに変わる。何だ、と僕もよく目を凝らして壇上を見ると、天羽先輩の腕の中に誰かが居た。  いや、どんな乙女ゲーだよ。  姫抱きでイケメンが登場なんて、乙女ゲームでしか見たことがない。なんで、あの人は人を抱えてるんだ、と不思議に思っていたのは僕だけではないようで「誰?」「どうして」などとひそひそと囁く声が僕の耳にも届く。  壇上のマイクが声を拾ったのか、天羽先輩の起きてくださいと、腕の中の人物を起こす控え目な声が響いた。どうやら天羽先輩が抱えている人物は寝ているようで、起こそうとする揺さぶる腕の動きは酷く緩やかで優しい。少し間を置いて、んんと掠れた声がして、腕の中から今まで眠っていた人物がゆっくりと顔を上げる。 「…――っ」  今この瞬間、騒めきが残っていた体育館は完全に静寂していた。  長く繊細な睫毛に縁取られた瞼を押し上げ、見えた瞳は綺麗な紫水晶で宝石のような瞳だった。  まだ完全には起きていない男に微笑むと、天羽先輩は少し癖のある散らばる黒髪にすっ、と指を通す。その黒髪は柔らかいようで、指の間をさらさらと流れる。その感覚が癖になったのか、天羽先輩は何度も何度も男の髪を指で梳いていた。  天羽先輩がこれだけ触っても男は起きる気配がない。  天羽先輩はとうとう本格的に男に触れる。  今度はそっと手を伸ばして、うっすらと目尻の下に触れていた。皮膚が薄いのか、それだけで白い肌が赤く色付く。指の腹ですりすりと撫で上げると、ぴくりと睫毛が震えた。  んん、と言う小さな声が男の唇から漏れ、今まで無防備に眠り込んでいた男に天羽先輩は顔を寄せ、状況を説明しているようだった。  男は天羽先輩の腕の中から降り、立ち上がる。寝苦しくないように開けていたのか襟元のボタンは何個か外れていて、白い肌がチラッと見えていた。  僕がごくりと喉を鳴らすのと、男がマイクに視線を落としたのは同時だった。  赤く熟した林檎のような魅惑的な唇が開き、無数の熱い視線を浴びながらも、男にしては細い首を軽く動かしてお辞儀をする。その拍子にさらり、と濡羽色の前髪が瞼を隠し、色っぽいような感じがして胸がドクン、と高鳴る。  顔を上げた男は、ぼんやりと未だ覚醒しきっていないのか、舌足らずな声で言葉を読み上げる。 「……おはよう。今日はあたたかくてよく眠れそう」  ――開口一番、おはようって。いや確かに、今日は凄く暖かくてちょうどいい気温だ。事実、僕もうとうと微睡んでいた。  しかも、不覚にも下心なくかわいいと思った。あ、いや、もちろん見た目がそう見えるとかじゃなくて、ぽやぽやした言動とか行動がそんな風に見えるってだけなんだけど。    だけど、新入生代表の挨拶でおはよう何て初めて聞いた。  いやいやいや、男にかわいいなんて。きっと僕は疲れてるんだ。そう自分に言い聞かせるように、ズボンの上で掌を握り締める。そうだ、これは推しに抱くような感情と同じで、そんな感情じゃない。思えば彼は僕の推しに所々似ていた。  もちろん、性別も顔も全然違う。似ているのは猫みたいな自由なところとか、髪と瞳の色だったりする。つまり、彼は僕の推しだった――?  彼を陰ながら見守りたい。僕は、推しを見守るモブだ。  それからも彼の挨拶は堅苦しいものではなく、ふんわりとした言葉選びに体育館はのほほんとしていた気がする。そして、挨拶の終わり。そんな無防備な眠り姫の、柔らかくほころんだ笑みに心臓を矢が貫いた。 「……新入生代表、白露 凛月」  つまり、何だ。  推しの供給過多に僕は昇天した。  後に、毎年恒例だとか言う鳥肌が立つ全校生徒で行う投票制の人気ランキング上位に白露君は選ばれた。内容は抱きたい、抱かれたいとか身の毛がよだつ内容だ察してくれ。しかも何故か、僕もランキングに入っていてこの世から消えたくなった。投票した人ふざけんな。  そんな白露君は生徒会にも勧誘され、呼び名も付けられた。  白露 凛月。別名、眠り姫。  眠り姫っていうのは間違ってはないと思う。白露君は本当にどこでも寝ている。この前は、中庭で心地よさそうに寝ているのを見掛けた。あまりにも静かだから、一度生きているのか心配になったことがある。まあ、それ程までに白露君は眠る。  その由来は「白雪姫」からも来ているのだと思う。淡い雪のように白い肌に、赤い唇、濡羽色の黒髪の白露君はまさに、その身体的特徴をもっている。だけど、白露君は毒林檎を食べてないから「眠り姫」になったんだと思う。  だけど、だけども……! 「…っ、ぇ……!…ぁ?」 「…君が隣の席の人?」  かたん、と椅子から僕が飛び退いた音に反応するかのように、白露君は身を起こす。咄嗟のことで僕は固まって、目の前には長い睫毛から覗く紫紺の瞳が僕を見ていた。近くで見ると、直視できないくらいに白露君は綺麗だった。遠くからは感じられなかった、儚げな雰囲気に手に汗が浮かぶ。  隣の席が推しだなんて、僕は聞いてない…!
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