第一章・失われたもの

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第一章・失われたもの

 大きな氷が転がっている。いや、ただの氷ではない。  陽に照らされる一人の『少女』が、立ち姿のまま凍りついていたのだ。何の変哲もない山道に、しかも雪が溶けきったあとの暖かいこの季節に。  不可思議な分厚い氷を見つけた男は、背負っていた大量の荷物をドサッと地面に放り投げた。伸びをしてから、すぐ横にある峯木の下に腰掛ける。  紺色の外套をしっかりと纏う。深く息を吐くが、どうしても心が休まらない。氷の少女から視線を外すことなく、男は口を開いた。 「綺麗だ。君とお話ができたら、まず名前を聞いてみたいなぁ」  まるで氷に一目惚れをした気分だ。  その少女は、何とも悲しそうな表情をしている。  小さな身体を包む黄土色の鎧は、あちこち傷だらけであった。か細い両手で、鉄製の長剣を握っている。  男が心を奪われそうになったのは、彼女の瞳色。青のケシの花を連想させる魅惑の目は、男と似た瞳の色をしている。肩の下まで伸びる深茶色の髪は、美に満ちた顔立ちとそぐわないほど乱れていた。   男は暫し身体を休めたあと、一度立ち上がる。 「どうして君は、凍りついているんだろう」  美しい少女は、氷のまま動かない。声を発せられない。もしかすると、既に死んでしまっているのかもしれない。  男はこんなに美しいものを放置したまま、その場を立ち去るなど考えられなかった。自分になら彼女を助けられるかもしれないという手段があり、希望があるからだ。 「実を言うと、僕は普通の人とちょっと違うんだよ。氷の塊から君を救える力があるんだ。でもね、それには一つだけ問題があって」  ほぼ独り言のまま、男はそっと氷に触れる。  すると──男が手を添えた部分が、めきめきと音を立て液体となって溶けていく。彼の手のひらは、ほんのり赤く染め上がった。 「ああ……やっぱり。氷の壁が厚すぎるみたいだ。このままじゃ全部を溶かすのは難しいな。僕がぶちギレてみれば(・・・・・・・・)燃やしてあげられると思うんだけどね」  他人に聞かれていたとしたら、この発言はさぞ意味不明だろう。男にとっては、氷の少女に向けた単なる独り言に過ぎないのだが。  添えていた手のひらをそっと放す。  どうにかして、助けてやりたい。もし彼女が生きていたら、ぜひその名を訊いてみたい。なぜ氷になっていたのかも興味津々だ。そして何よりも── 「君って本当に綺麗だよね。僕の好みだよ。助けてあげるからナンパしてもいい? あっ、因みに僕の名前はリ・リュウキ。僕って結構イケてる男だから、きっと君とお似合いだと思うんだよね」  動かぬ氷の少女に向かってリュウキと名乗る男は、ふっと笑みを溢す。    その折、西側から梅の香りを乗せて強い風が吹いた。リュウキの黒い長髪が乱れ、すかさず自分の髪を整える。  ──その最中である。  背後に、何かの気配を感じた。  足音を一切立てず、それ(・・)は静かに忍び寄ってくる。興奮しているのだろうか。微かに空気の中に紛れる「怒」と「哀」の感情が、リュウキの六感に伝わってきたのだ。  人間ではない、しかし普通の野生動物でもない。  リュウキは固唾を飲み込み、おもむろに後ろを振り返った。 「……お前は?」  リュウキは目を見開いた。  峯木の奥に身を潜めるように「それ」は目を光らせてリュウキに視点を定めている。喉を鳴らし、四本足でまるで這いつくばるように姿勢を低くしていた。体勢からして襲おうとしているのは明白。  山猫ではない。全身から白い毛を生やすその生き物は、血のような目でリュウキを睨んでいる。 「……珍しいね。『白虎』か。君、もしかして化け物?」  白虎は微かに震え、木陰の中からリュウキを睨んだまま動かない。 「可哀想に。美しい白色の毛を纏っているのに、化け物になっちゃったんだね。その真っ赤な目の色が証拠だよ」  大きくため息を吐く。明らかにこちらに狙いを定める白虎を前に、リュウキは忠告した。 「あっ。襲ってこない方がいいよ。僕を傷つけたら大変なことになるんだ」  相手に人間の言葉が通じているのかなんて、リュウキにとっては関係ない。  傷つけられるのがすごく嫌なのだ。無駄な戦いをして、余計な血を流すことにも嫌悪感がある。  しかし相手は戦闘態勢を崩さなかった。 (……仕方がない。少し相手をしてやるか)
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