Act.1 Howling ―遠吠え―

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Act.1 Howling ―遠吠え―

8f64b9eb-e836-4373-aac3-6fba80fbb8c9  高層ビル群が(ひし)めく街の空はいつも薄暗い。  大地を枯渇させた異種族間の百年戦争――それによって巻き上げられた空中(ごみ)が、終戦から50年という月日が経った今でも太陽光を(さえぎ)っているのだとか。  眠り知らずのダイバーシティには、ネオン看板の花が咲く。  楽し気に行き交う人々と色とりどりに光る花の間をすり抜け、青白い顔をした一人の男がふらりと路地裏に身を潜めた。  黒のシンプルなスーツを着て、片手にはビジネスバッグを持っている。  仕事帰りのサラリーマンだ。  正確にはサラリーヴァンピールだが。  男は神経質そうな顔に脂汗を滲ませながら、鬱陶し気にネクタイを緩める。  ――酷く喉が渇いた。  吸血牙を隠すことも忘れ、飢餓症状に襲われた男は路地の暗がりを当てもなく彷徨(さまよ)う。  薬局で売っている血液タブレットは味気ないし、ブラッドワインで酔うこともできない。  なぜなら、男はを知ってしまったから――。  すると、反対側から誰かが歩いて来るのが見えた。  足取りはおぼつかず、右に左へふらりと揺れる。  起き上がり小法師のようにけして倒れないのは、酒に酔っている何よりの証拠だ。  裏返しに羽織るカーキのミリタリーシャツに白いパーカー、ゆったりとしたカーゴパンツを合わせたスタイルから、年若い青年と予想する。鳶色(とびいろ)の髪は後ろで短く結ばれていた。  丸く優しい形をした目は据わり、意味のない言葉を(つぶや)いて千鳥足でこちらへ向かってくる。  ほんのり漂うアルコールの香りと、健康的な肌の瑞々しい匂い。少女のような危うさすら感じる。  血を欲した口内の唾液で溺れそうなヴァンピールは、もう辛抱ならなかった。  ビジネスバックを道端に放り投げ、影に溶ける。  そしてへべれけな青年の背後に音もなく姿を現すと、パーカーがたるむうなじ目掛けて大きく口を開いた――のだが。 「はい、現行犯」  くるりと後ろを振り返った青年が、ヴァンピールの頬を両手で包んだ。  戦火の末に世界の果てへ追いやられた森林のように澄んだ瞳が、男を真っ直ぐに見つめる。  この街に住む者なら皆、木々の薫りや葉の擦れる音に郷愁を抱くものだ。  男はその美しい瞳に魅入って、思わず時を忘れる。  ――ゴキッ。  気づくと、彼の視界は上下逆さになっていた。  呆けるヴァンピールの顔を、青年が容赦なく時計回しに捻ったのだ。 「なっ……え゛?」 「最近街を騒がせてるヴァンピールは君だね? 生身の吸血は条例違反だよ」  平衡感覚を失い地面へ倒れ込む男に背を向けた青年は、裏返しになったシャツを直しながら無線でどこかへ連絡を取る。どうやら悪戯(いたずら)好きなピクシー避けのアルコールコロンを(まと)い、酔ったふりをしていたらしい。  胸ポケットには三重円に十字マークのワッペンが。それはダイバーシティの保安局と提携した民間警察会社のシンボルだった。 「ミラージュ、位置情報拾えてる?」 『マホロくん、お疲れ様! ばっちり拾えてるわよ。あと3分くらいで保安局が到着するわ』  通信相手の女性は陽気な声で返事をした。  地面にひれ伏す男は、一週間前から条例で禁じられた一般人への吸血行為を繰り返し、4人の死者を出している。  保安局から提示された懸賞金は100万ルピ。青年の上半期ボーナスがさぞ潤うことだろう。  ――だが、ここで大人しく捕まってやる義理もない。  男は(あご)が夜空を仰ぐ不思議な身体をそっと起こし、未だ背を向けて通信を続ける青年の首へ噛みつこうとした。刑務所へ入る前に生き血を(すす)りたい、その一心で。  すると、頭上を照らすネオンの薄らぼんやりとした光を何かが遮る。 「そいつはやめとけ、腹壊すぞ」  脳が痺れるほど良い声だった。  次の瞬間、男は上を向いた顎に10階建てのビルの屋上から降ってきた(かかと)落としを食らい、再び地面へ崩れ落ちる。  アスファルトに後頭部を思い切り打ち付けた。痛みでひん()いた目に飛び込んだのは、すらりと背の高い黒髪の青年。  そこで、男の意識は途絶えた。 「酷いよガルガ。喫煙歴なし、アルコールはほどほど、適度な運動もしてる健康的な若いヒューマン! こんなご馳走めったにないじゃん!」 「自分で言うか普通? というか、拘束もしないで放置すんなよ、危ねぇな」 「あは、忘れてた~」  ガルガと呼ばれたぶっきらぼうな口調の青年は、カーキ色の厚手のブルゾンから手錠を取り出す。  泡を吹いて気絶した男の両手首を後ろで拘束して、大通りの照明が届く場所へどけた。これで影の世界へ逃げられることもないだろう。  それよりも、だ。
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