花子の春

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「かわいいね」  その一言に、心臓が口から出そうなくらい飛び跳ねた。何なら鼓動を一拍分飛ばしたんじゃないかと思うくらい。 だが、そんなのは華麗なる勘違いだったと、白井君の視線と指差す先で気が付いた。  彼が見ていたのは、わたしがいま机の横に掛けた鞄。持ち手の所にぶら下がっている、淡いピンク色の垂れ耳うさぎのぬいぐるみのキーホルダーだ。 「あぁ、うん、ありがとう。これ、気に入ってるの。お父さんに貰った物だから」  白井君は「へぇ、そうなんだ」とにっこり微笑む。まだ梅雨も前だと言うのに、日に焼けた白井君の肌に白い歯が爽やかに光る。  日当たりの良いこの席は、確かに眠気を誘う。特に朝の涼しい澄んだ風が運んでくる緑の匂いを嗅いでいると、真面目に授業を受けなきゃという気さえ削がれそうになる。残念なのは、わたしのクラスからは海が見えないという点だ。  この学校は三つの棟を貫く渡り廊下を中心にして、上空から見ると漢字の「王」の形になっている。  あいにく一組のわたしの教室は、王の字の一番上の棟に位置する。三組と四組は真ん中の棟。五組か六組に当たれば毎日海が見えるのだ。この都会から山ひとつを隔てた、長閑で刺激の無い小さな町の高校が人気なのは、そういう理由もあるらしい。  白井君のあくびや、早くにやって来た生徒が鞄から教科書を出す音の方が目立っていた静かな教室も、次第に賑わい始める。待ち構えていたのかと思うほどチャイムと同時に入って来た担任――通称マックが剃りたての青い顎を撫でながら「ほらあ、早く席につけー」と間延びした声を響かせると、黒板の方を向いて何やら書き始めた。 
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