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モモ
トントントン・・・。
ジューッ。
パタパタパタ・・・。
半分ほど開いた寝室のドアの向こうから、朝の匂いが漂ってくる。
幸せな朝の匂い。
そして幸せな朝の音。
これはお味噌汁の匂いかな。それと目玉焼きを焼く音。それから忙しなくキッチンを動き回るスリッパの音まで聞こえてくる。
もう朝か。目を覚さなきゃと思うのに、この暖かいベッドが気持ち良くて、なかなか目を開けられない。
だけどこのままのろのろしていると、きっとあの子がやってくる。
「…んっ、」
ぺろぺろとまぶたを舐める温かい舌の感触。
その正体は伊織…ではない。
薄目を開けて見えるのは、ちらりと覗く赤い舌。くりくりとまあるい目。体を覆うふわふわの毛。
「ん〜…もも〜…?」
わしゃわしゃと体を撫でると、俺が起きたのが分かったのか、モモはぴょんっとベッドを降りてたたたっと寝室を出て行った。
するとすぐに聞こえてくる愛おしい人の声。
「モモ〜。起こしてきてくれたの?ありがとぉ」
まるで小さな子どもに向けるような優しい声。
でもモモは俺たちにとって我が子みたいなものだから、そうなっても仕方ないのか。
「伊織、おはよう」
「おはよう、仁」
「ごめんね、寝坊した」
「ふふ、大丈夫」
リビングに行くと、そこにはモモを抱き上げて頬をすりすりと擦り付けている伊織の姿があった。ダイニングテーブルにはおいしそうな朝ごはんが並んでいる。
いつもなら家で仕事をしている俺が、出かける準備でバタバタと忙しない伊織の分も朝ごはんを作るんだけど、昨日は仕事が遅くまでかかってしまったせいですっかり寝坊してしまった。
伊織は高校卒業後、専門学校に通って動物看護師とトリマーの資格を取った。そして今は近くの動物病院で働いている。
「モモもご飯食べようね」と言う伊織の甘い声を背中に聞きながら、顔を洗うため洗面台に向かった。
大学を卒業して早6年。そして伊織とモモとこの部屋で暮らし始めて1年が経った。
この部屋に越してきたのは1年前だけど、伊織と同棲を始めたのはもう少し前のことになる。今よりも狭く、ペットを飼うことのできない部屋で、ふたりきりで暮らしていた。
伊織との二人暮らしは毎日が幸せの連続だった。どんなに仕事が忙しくても家に帰れば伊織がいて、伊織を抱きしめて眠ると朝になれば疲れなんて吹っ飛んでいた。
狭いとは言えふたりで暮らすには十分だったあの部屋もお気に入りだったけど。だけどそこから引っ越そうと決めたのは、『大人になったらふたりで犬を飼おう』という、幼い頃に交わした約束を果たしたかったからだ。
「引っ越そうか」と話した日のことを思い返すと、心はぽかぽかと温かくなって、そして体はじくじくと熱くなる。
朝から何を考えているんだと呆れてしまうけど、これはもう仕方がない。あの日の伊織が可愛すぎたから。全部全部伊織のせいだ。
バシャバシャと顔を洗い鏡に写る自分の顔を見ると、予想通りだらしなく緩んでいた。
*
*
「ぁ、…っ、ぁ、んん、」
「伊織…」
「…じん…っ、…ぁ、…き、もち…っ、」
「うん、俺も…」
何度肌を重ねても、いや、幾度も肌を重ねるたびに、俺は伊織に夢中になっていく。
優しくしてあげたいのに、気付けばぽたぽたと汗が流れるほどに伊織を求めてしまう。
こんなに激しくして伊織の体は大丈夫なんだろうかと頭の片隅で思いつつも、動きを緩めることなんてできなくて。組み敷いた伊織の唇からは絶えず甘い声が漏れた。
伊織の締め付けに抗えずそのまま中へ吐き出せば、ビクビクッと伊織の体が震えた。
「伊織、大丈夫?」
「…ん、…へいき、」
頑張ってくれた伊織の顔に張り付く髪を後ろへ流し、現れたおでこにキスを落とす。すると伊織がそこじゃないと言うように唇を尖らせるから、望み通りにチュッ、チュッとリップ音を立てて何度も何度もキスをした。
「ね、伊織」
「…ん?」
「引っ越さない?」
「…へ…?」
もしかしたら今言うことじゃないかもしれないけど。だけど今、どうしても言いたくなってしまった。伊織もまさかセックスの最中にこんなこと言われるとは思っていなかったんだろう。さっきまで艶っぽい声を上げていた唇からはなんとも間の抜けた声が漏れた。
「もう更新でしょ?そろそろ通知来るんじゃない?」
「そう、だけど…」
「だからさ、犬飼える部屋に引っ越そう?」
「…え…?」
俺の言葉に大きく見開かれる伊織の目。
「仁…、覚えてたの…?」
「当たり前じゃん。俺そのために転職決めたんだから」
「仁…」
大学を卒業して5年。今の会社に就職して、それなりに経験を積んできたつもりだ。
そしてこの5年間で得たものを味方に俺は転職を決め、内定をもらった会社はずっとずっと念願だったリモートワークが可能な会社だった。
「伊織はずっと家にいるの無理でしょ?でも俺がいれば、わんちゃんに寂しい思いさせないですむかなぁと思って」
じわりと伊織の目に涙が滲んで、でもこぼれるのを堪えるように下唇を噛み締めている。
まだ繋がったままだけど、よいしょっと伊織の体を抱き起こせば、「…ん、ぁっ…」と悩ましげな声が漏れた。
「ねぇ伊織、引っ越そうよ。それでふたりで一緒に犬飼おう?」
伊織を膝の上に乗せると、伊織の目からは耐えきれずに涙がこぼれ落ちてくる。その涙を拭ってやれば、伊織の腕がぎゅうっと首に回った。
今まで仕事はかなり忙しくて、伊織に寂しい思いをさせていた自覚はある。だけどそれは全て伊織との約束を果たすためだった。
どうかそれが伊織に伝われば嬉しいなぁと思う。
「うんっ、…引越して、犬、飼う…っ」
「ふふ、良かったぁ」
「…いつから、考えてたの?」
「んー?いつからって聞かれると難しいけど。だって俺、ずっとずっと考えてたから」
いつからか、なんて。
伊織と長い時間を共にし過ぎて、そんなのもう分からない。だけど伊織と一緒に暮らして犬を飼う。それだけを目標に俺は今までを過ごしてきた。
「だから明日さ、部屋見に行かない?」
「え?明日?でも予約とかしないと…」
「もうしてあるよ?」
さっきは良かったぁなんて言ってみせたけど、伊織はきっと頷いてくれるだろうと思っていたから、いくつか候補を見繕って既に内見の予約済みだ。
「…もう、なにそれ」と伊織は呆れたように眉を下げるけど、その顔からは嬉しさが滲み出ていた。
そんな伊織をもう一度ベッドに押し倒す。伊織は「えっ?」と驚きの声を上げたけど、今はセックスの最中で、まだ終わったわけじゃない。
それを思い出させるように伊織の唇をぺろっと舐めると、「仁が犬みたい」と伊織がふにゃっと笑った。その顔があまりにも可愛くて、そしてなんだかちょっとだけ悔しくて。伊織の口に舌をねじ込み深い深いキスをした。
*
*
そしてすぐに新しい部屋を見つけた俺たちは、新しい家族を迎える準備に入った。
俺はペットショップで生まれたばかりの子犬を見つけようと思っていたけど、伊織はそうではなかった。
どんな子がいいかなぁ〜とふたりで話していたとき、伊織が言った。
「保護施設に見に行きたい」と。
子どもの頃から動物が好きな伊織らしい考えだと思った。そして訪れた保護施設で出会ったのがモモだった。推定6歳のポメラニアンで、ブリーダーの放棄によりこの施設にやってきた子だった。
モモのようにブリーダーに放棄されて保護施設にやってくる子は少なくないらしい。もちろん愛情と責任を持って、きちんとした環境で飼育しているブリーダーがほとんどだけど、一部にはこうした悪質なブリーダーもいる。それは動物に関わる仕事をしている伊織にとって、とても悲しいことなんだと思う。
リビングに戻ると、むしゃむしゃと勢いよくご飯を食べているモモの隣に膝をついた伊織が「今日帰ってきたらシャンプーしようねぇ」と話しかけていた。
辛い思いをしたであろうモモを、目一杯愛してあげたい。俺ももちろんそう思っている。
…だけど、だけど。伊織の愛情がモモにばかり行きすぎてはいないか?と思わないこともない。
モモに嫉妬するなんて馬鹿だよなぁとは思うけど。
「伊織。俺らもご飯食べよ」
声をかけると、「うん!」と伊織も椅子に座った。
「いただきます」と手を合わせ、伊織はお味噌汁に手を伸ばす。一口こくっと飲み込んだところで、「ねぇ、」と伊織を呼んだ。
「ん?」
「今日さ、セックスしたいなぁ」
「…っ、なに…?朝から…」
「だって夜急に言われても困るでしょ?」
「それは、そうだけど…」
幼馴染だった俺たちが恋人という関係になってから10年以上の時間が流れた。もう数えきれないほど肌を重ねているのに。いまだに伊織はこういう話をするのは恥ずかしいようだ。
だけど伊織は優しいから、強請ればわがままを受け入れてくれること、俺は知っている。
「ねぇ、だめ?」
「…じゃない、けど…」
「ん?」
「だから…っ、だめじゃない!」
顔を真っ赤にして、伊織は口一杯にご飯をかき込んだ。
ほらやっぱり、伊織は俺に甘いんだ。モモだけじゃなくて俺にもちゃんと優しいし、モモにはこんな伊織の顔を見ることはできない。
赤い顔のままご飯を食べ終えた伊織は、「もう仕事行く!」と立ち上がった。
出かける準備を済ませ玄関に向かう伊織をモモを抱き上げ追いかける。
「…じゃあ、行ってきます」
夜のことを考えているのか、恥ずかしそうにきょろきょろと視線を泳がせる伊織は可愛い以外のなにものでもない。こんな顔のまま外に出したくないけど、仕事に遅刻させるわけにはいかないから。
抱いたモモの腕を取り、「伊織ちゃんいってらっしゃーい」とその腕をゆらゆらと振ると、伊織の顔はすぐに子を慈しむ親のそれに変わった。
「モモ〜行ってくるねぇ」
優しくモモの頭を撫で、「じゃあ行ってきます」と伊織は部屋を出ていった。
バタンとドアが閉じると、モモがジトッとした目でこちらを見上げてくる。その顔からはまるで「また仁とお留守番か…」とため息が聞こえてきそう。
間違いなく、モモは俺よりも伊織のことが好きだ。だけど俺の方が伊織のこと好きだからな…と無意味な対抗心を燃やしながら、モモのまんまるな目を見つめて言い聞かせた。
「モモちゃん?今日は早く寝なさいね?」
ベストフレンド 〜その後のふたり〜
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