恐竜に乗れた日

2/66
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/66ページ
 北階段から3階に上がってすぐに透析室がある。消化器科病棟へ行くにはそこの前を通らなければいけない。  歩行器や点滴台を押した人とすれ違いながら光沢のあるクリーム色の廊下を歩く。  梅雨の時期だからか、透析室の窓口には、折り紙で作った紫陽花や、ニコニコ顔のてるてる坊主たちが飾られている。ミントグリーンのカーテンや窓枠が薄紫の紫陽花とよくマッチしていて可愛いけれど、私はじっくりとは見れないのだ。  なぜなら、あの親子に存在を気付かれたくないから。  透析室の前をうつむきながら早足で通りすぎる。手にぶら下げた袋が歩く度に音を立てないように、透明人間になったみたいに。ささっと。  どうか、誰にも気付かれずこの場を通り過ぎることができますように。  「おはよーございます!五味でーす!よろしくお願いしまーす!」  せっかく、見つからないように、静かに。といった独自のミッションをクリアしかけていたのに、しわがれた大きな声が聞こえた瞬間、私の意識は釣り糸で引っ張られたかのように彼らのほうへ向いてしまった。    チラッと後ろを見ると、さっきの息子が父親を透析室まで送り届けた直後だった。  「元太君今日もご苦労様〜」  若い看護師さんが、太ったおじさんの息子を労う様子が窺えた。息子は「あざっす!」と、やっぱりうるさい声を出す。額に手を当て水平さんのようなポーズをして満面の笑を見せていた。  息子の持っている水色のリュックサックは薄汚れていた。しかも、半分チャックが空いていて、ペットボトルが今にも落っこちそうになっている。それを近くに来た年配の看護師さんに指摘されると「あ!やべ!」と言ってまた独自の変顔と変なポーズをした。  そんな息子を、おじさんを囲みながらみんなで笑っていた。  彼の変顔がおかしすぎてうっかり笑いそうになってしまったのが悔しいけれど、すぐに緩んだ表情筋を引き締めた。私は楽しそうに笑っている彼らも、周りの看護師さんたちのことも、なんだか気持ち良く見れないのだ。  おじさんのポテトチップスが没収されていたことだけが、すこぶる性格の悪い私を少し納得させていた。  彼らのほうを向いたままでいると、おじさんの息子が私に気付いてしまった。    「こんちわ!」と手を上げて、いつも通り大きな声で挨拶してくる。私は、彼と目を合わさず、軽く会釈だけをして、逃げるようにその場をあとにした。  息子は、多分私のことを知っているはず。  だって彼は私と同じ高校に通っているから。通学や移動教室の時、何回かすれ違っているから。  五味元太。クラスが違うので、大きな声と鼻に付く仕草以外彼のことは知らないけど、空気の読めない変なやつだってことは、噂で聞いたことがあった。  たしか彼は、みんなから〝ゴミげん〟って呼ばれていた。  
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!