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飛来11
「しかし……蜘蛛というのは何だろう。それだけ異質な気がするが……」
柘が考え込むように眉根を寄せる。
緑は黙ってうなずいた。自分でも雪景色よりさらに解せないものだった。記憶の層をめくっても、夢に出てくる蜘蛛の姿は見いだせない。だとしたら、失う以前の記憶の断片なのだろう。そう片づけ、始まりの風景を心に描く。
豪華だが陰気な感じのする広くて薄暗い屋子の寝台に独りぽつんと居て、風に揺れる白紗の帳の向こうに白花王が見える——その情景も決して気持ちの良いものではなかったが、澱んだ気を浄めるかのような純白の花王だけは、想い浮かべるたびに緑を清々しい気持ちにさせるのだった。
「目が覚めたとき、院子(庭)に白花王が咲いていたんだ。でも、そこが何処なのか……分からない」
話しつつ、緑は背筋を震わせた。屋敷には化物が棲んでおり、首の傷痕はその爪痕なのだ。白花王の他は、そんな恐ろしい印象しかない。
「チョーカーは……傷痕を隠すためか?」
柘が神妙な面つきで訊ね、緑は自分の狼狽ぶりを思い出して恥ずかしくなった。
「これはまじない。なにか巻いていないと落っこちそうでさ」
「喪失は再生の一つのかたちだ。過去に何があろうと君は君、今を生きればいい」
「なら旦那もそうすればいい。過去にこだわってもしょうがないよ」
「君とおれは違う」
「なんで旦那はそうなんだ。腹の傷をえぐったって、死んだ奴は生き返らない!」
柘がはっとした顔をして、緑は唇を噛んだ。
意地悪い気持ちではなかった。柘の腹の古傷をゆうべはっきり見たのだった。以前目にしたときは気づかなかったが、引き攣れた古い傷痕はさらに無数の傷に痛めつけられていて、自傷の痕だと一目でわかった。
「そうしたからって、どうにもならない。旦那を見ていると……」
緑は自分の中に生まれた見知らぬ感情を、どう言いあらわせばよいのか考えた。つと、月影の中で感じた胸の痛みがよみがえり、言葉が見つからないまま、
「苦しくなる」
胸を押さえて言った。
すると柘が眼を上げ、
「困ったな」
唇の端で笑った。
さっきまでの痛々しさなど微塵もない、緑から見てもゾクリとするような不敵な男の色気がその顔に灯っていた。
「おれに惚れたんだろう」
柘が首をかしげてにやっと笑う。
緑は、かっと頬が熱くなって、
「ばッ……老太婆どもと一緒にするなッ!」
舌をもつれさせながら怒鳴った。躯からまたしても汗が噴きだし、顔を紅くしたまま首に巻いた手拭で汗を拭う。
柘がくくと笑い、やがて肩を揺らして大笑いする。
「悪党ッ!」
緑は罵倒し、言葉の陳腐さに悔しくなって、
「馬鹿ッ!」
またも納得いかない言葉を吐き、腹が立って枕を投げた。
「怒るなよ。冗談に決っているだろう」
柘が飛んできた枕を片手で受けて膝に落とす。
「——だが、客も君も、女も男も、皆同じ人間だ。各々の国の、各々の階級の、各々の事情のなかで生きてはいるが感情の上では同じ。嬉しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣く」
「旦那は甘いよ。人間は、同じ、じゃ嫌なんだ。他人より金持ちになりたいし、いい思いがしたい。全ては比較だ!」
緑はすげなく言い捨てた。汗は止まり、顔の火照りもとれてきたが、どうしてこうなるのか謎だった。
(風邪でもひいたか? それとも旦那が熱を放射しているとか? まさか、妖術使いじゃあるまいし……)
緑は汗に湿った短衫を脱ぎ落し、自分の手拭で汗を拭いた。そうしながら、ちらりと窓辺の柘を見る。柘は膝に枕をのせたまま、椅子にもたれて脚を組み、考えこむように戸外を見ている。腱を浮かせた足首が丈の足りない袴子の裾から剥き出しになっていて、その袴子や布鞋(布靴)にも血痕が付着している。
(短衫と一緒に袴子や布鞋も買ってこなきゃ。それから髭剃り用の剃刀と石鹸と新しい下着、手拭もいるな)
緑がそう算段したとき、柘がふいに話を継いだ。
「おれの汗と君の汗と、どれだけの隔たりがある。肌の色や眼の色は違っても、寒いときは震え、暑いときには汗をかく。皆同じだ。だのに金持ちと貧乏人。侵略する者とされる者。強者は弱者を踏みつけにして咎められず、踏まれた者はさらに弱い者を踏みつけにして憂さを晴らす。なぜ、全ての人間が同じ赤い血を持つ同胞だと気づかない。流す涙や打たれる痛みは同じだというのに」
「なら、道端で寝転がっている虱のたかった乞食も同胞だってのか。おれはごめんだ。強い奴が生き! 弱い奴が死ぬ! 自分を護れない虫螻に生きる権利なんかない!」
「弱い者でも生きる権利はある」
「へえ、旦那は優しいね。だったら教えてよ。おれは何処へ行けばいいのかな? ここで生まれたからおれは中国人だと思っているが、ここの奴らは誰もそう思っちゃいない。なら西洋人か? それも違うらしい。そこらへんの乞食は、中国人だってだけで何もしないで寝ているだけで住む権利も生きる権利もあるらしいけど、おれみたいな親なしの混血は何処へ行っても他所もので、何処へ行っても同胞なんかいやしない。そんなおれってどうすればいいの?」
押し黙った柘を見て、緑は鼻を鳴らして嘲った。
「呑気に同じだなんて言えるのは、自分に日本という国があるからだ」
「だが、少なくともおれは君を同胞と思っている。人には心がある。それは国や民族や言語をこえて通いあう。君はおれの熱がひくまで汗を拭ってくれたな。君はおれを案じてくれた。その心は伝わる。思い合う心があれば、生まれがどうであろうと同胞だとおれは思う。君は人間として同胞であり、個人的にはそれ以上の相棒だ」
柘が戸外から視線を戻して微笑する。緑はぷいと横を向いて黙った。
(心なんか——)
反論の言葉を探したが、それ以上の相棒、という言葉が頭を巡って何も考えられない。
「ご両人は居るか」
廊下から扉が叩かれ、楊の声が掛かる。
柘が無言で枕を投げてよこし、卓子に広げた地図を畳みだす。
緑は袴子の後ろ腰に拳銃を突っ込み、脱ぎ捨てた短衫を羽織って腕を通した。布団の間から小刀子(ナイフ)を抜きとり、手の内に隠し持つ。卓子が片付くのを待って榻を降り、扉を開ける。
「具合はどうだ?」
楊がつかつか部屋に入って来、窓辺の椅子に腰掛ける柘の前に立つ。
「見ての通りだ。気遣い感謝する」
柘が何食わぬ顔で楊に笑みを向ける。
「そりゃよかった。あんたが死んじまったら標致(べっぴん)まで死んじまうって、宗が騒ぐもんでな。情人てのは一蓮托生の身。あの世で一つの蓮の花になるまで添い遂げるって言うから——あんたの命はあんただけのもんじゃねえ、標致の為にも大事にしな」
楊がしみじみした口調で言って、ふいに破顔する。
「喜べ。あんたの具合さえよければ、大頭が今夜にでも面通しすると言っている。異例の早さだ。ゆうべの働きが気に入ったらしい。どうする? 今夜は船での護衛だが」
「もちろんやるさ」
楊がうなずき、向かいの椅子に腰を下ろして段取りを話しだす。
打合せが終わったところで、柘が楊に香烟を勧める。
「大頭は東洋鬼(日本人)か?」
楊が香烟を銜えるのを待って、火をつける。
「気に入られたいんだ。それには情報が必要だろう。腰に日本の刀を差していると聞いたが——」
(やはり、知っていたか……)
緑はもう驚かなかった。柘が侮れない男であることは、行動を共にした緑が一番よく知っている。
柘が楊の手の内に一元銀貨を五枚、滑り込ませる。ついさっき手拭の代金として緑から巻き上げた銀貨だ。
「なるほど。いい心掛けだな」
楊が香烟を銜えたまま、銀貨を爪で弾いて懐の隠しに入れる。
「確かに大頭は腰に日本の刀を差していて、背中の彫物もこっちのもんじゃねえ。十中八九東洋鬼だろうが、誰でも知っていることだ」
「東洋鬼に仕切られて、腹が立たないのか?」
「生きて銭が儲けられりゃ、何者だろうが文句はねえさ。いい働きをしてくれれば、あんたらが何者だろうと構わねえのと同じこった」
楊がにやっと笑って、柘を見る。
緑は、柘の背後から柘の肩に触れた。楊を殺るか否か指示を求める。
廊下に人の気配はない。窓が開いているので拳銃は使えないが、この距離なら小刀子で十分仕留められる。
(殺るか?)
柘の肩から首へと指先を滑らせる。柘がうなずきさえすれば、楊は喉笛に小刀子を突き立てられて絶命する。
柘は動かず楊を見ている。楊は表情を変えることなく飄々と香烟を喫っている。
「お見通しというわけか。隠していたのは悪かったが、東洋鬼じゃ信用してもらえないと思ったんだ。大頭が日本人なら同郷のよしみでなんとかして貰えるんじゃないかと——」
楊がこの場で話を切り出した事を、柘は好意と取ったらしい。楊がくつろいだ顔で、香烟の煙をふうっと吐き出す。
「いいさ。同郷のよしみが通じるかは知らねえが、会ってせいぜい売り込みな。おっかねえおっさんだが話は分かる。働き次第で取り立ててもくれる。気に入られて一つ二つ仕事を任されりゃ、銭もできて高飛びできるぜ」
「だが、どうしておれが日本人だと分かった?」
「いい化けっぷりだが、背負い投げはいけねえな」
楊が、さも愉快そうにふふと笑う。
「柔道を知っているのか? あんたも日本人なのか?」
「いや。少々そっちに居たことがあるってだけだ」
楊が床で香烟を揉み消し、柘の後ろに立っている緑へと眼を上げる。
「冷汗が出たぜ、標致。おまえこそ、一体何者だ?」
「さあね」
緑はにこりともしないで楊を見返した。差し込む西日に翡翠色の眼を細めた。
三章「無明」へ続く
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