演じるよりも成りたくて

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 職場の先輩だった彼は、本当に私にいろんなものをくれたけれど、同時に様々な役も寄越した。  出会ったばかりの頃にくれたのは、仕事の合間の缶コーヒー。それと"可愛い後輩"の役を任された。  次第に仲良くなると、甘い言葉と薔薇の花束と共に、"恋人"の役を贈られる。  付き合いが長くなると、石付きの指輪と共に"婚約者"の役を約束された。  給料三ヶ月分の白金の指輪と共に渡されたのは"妻"の役。  義両親の前では"嫁"の役もせねばならない。  ああ、そうそう。  夫が同僚や上司の前で私を呼ぶ時は"良妻"を演じ、寝室で何処ぞの女の家の鍵を拾った頃から"夫の不倫など知らない妻"も演じなければならなくなったのだっけ。  結婚して一年が経つと、義両親からは子を為せない"石女"の役を押し付けられた。  夫の為にこんなにも色々と演じ分けているというのに、彼が私の演技に気付いているのかは怪しいところだ。  何せあのひと、私が髪の長さを変えても、体調を崩してもまったく気付きやしない節穴の目の持ち主だもの。  本当に、夫と一緒になったが為に、損な役ばかり押し付けられる。  あまりに多くの役をこなさねばならないものだから、見返りが欲しくなった。  私が欲しいのは、二つだけ。なのに、夫がいつまで経ってもくれないそれは、"素の私"と"子ども"。  子どもならば一度はできたのに、産めなかった。夫からどうしても、と頼まれて、泣く泣く諦めさせられたのだ。  その後、望むものは来てくれないまま。やがて、夫は外に女を作り、その女には私の望むものを与えた。  運命を司る神様は残酷だが、夫は鬼畜だ。  私の欲するものを知っているのに、"良妻"を演じても、"義両親の仕打ちに堪える嫁"を演じても、子を与えようと働きかけることはおろか、夫から押し付けられたすべての役から私を下ろす気配もない。  わかっているのよ。このひとは将来、私に義両親とゆくゆくは老後の自分の面倒を見る"介護人"の役をも私に押しつけようとしているのだと。  "妻"に始まり"介護人"に至るすべての役を担ってもいいのよ。私が夫の家族となる際に計画していた家庭の姿は、おおよそそういうことだったのだもの。  ただし、すべての役を押しつける前に、どうしても子どもが欲しかったの。  だって、子どもがいれば、私は"私"になれる確信があったから。
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