<1・金縛りからこんにちは。>

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<1・金縛りからこんにちは。>

 ひっ、と喉で息がつっかえた。指先が、無意味にバタバタと蠢く。指だけは辛うじて動く――指だけなら。それなのに、まるで見えない鎖でがんじがらめにされているかのように腕や足が動かない。体を起こすことも、首を持ち上げることさえできない。  これはひょっとして、と橋本仁(はしもとじん)は思った。ひょっとして、ひょっとしなくても、金縛りというものなのではないか、と。 ――なんだよ、おかしいだろ!此処が……事故物件だなんて聴いてないぞ!  はっ、はっ、と細かく息を吸いこんでは吐いてを繰り返す。ぎしぎしぎし、と軋むブリキ人形のような動作で窓の方へと首を傾けた。  此処は、自分が新たに借りたばかりのアパート。  分厚いカーテンの向こうからは、青い月の光が射しこんできている。時間はまごうことなき夜。木製の天井からは、円い笠を纏った照明が風もないのに微かに揺れていた。せめて、あそこから伸びているスイッチ紐を引っ張ることができれば――なんて思うが、体が動かない状況ではそれさえ叶わない。  明かりが消えたワンルームの部屋で、仁は一人冷や汗を掻きながら金縛りに耐えている。  幽霊でないのなら、何かの病気である可能性が高い。いずれにせよ、このままの状態では非常にまずいことになるのは間違いなかった。 ――ど、どうしよう。誰かに助けを呼ばなきゃ。……くそっ……なんでこんなことに!  枕元のスマホに手を伸ばそうと、渾身の力をこめる。しかし、アメフト部で鍛えた屈強な腕も、今はまったく謎の力に逆らってくれる気配がない。ぎしぎしと、嫌なきしみを上げるばかりである。  本当に幽霊なのか。だとしたら、そのうち襲いかかってくるのか。来るならいっそ早く来てくれーー恐怖に負けて仁がそんなことを思った時だった。 「くすくす、くすくす……」  低い、誰かの笑い声が。  意外にもその声は、若い男性のものであるようだった。 「ふふふ、来た。男だ。若い、男……」  嬉しそうに呟くのが聴こえた瞬間、ざああ、とカーテンが大きくはためいた。照明の笠と紐が風にあおられる。何か、強い力を持った何かが今、この部屋に。 「嬉しい。ああ、嬉しいなあ……」  みし、みし、みし、と床が軋む音。近づいてくる。窓と反対、玄関の方から。  段々とその音に、ぺた、ぺた、という少し湿ったような音が混じっていることに気づいた。裸足だ、と気づいてぞおっと背筋が冷たくなる。  春とはいえ、今日は少々肌寒い。裸足で歩くには躊躇するくらいの気温だというのに。 「ねえ、こっち見て」  ふう、と息を吹きかけられた気がした。耳に、何かさらさらとしたものが触れる感触。髪の毛だ。がくがくと震えながら、仁はゆっくりと首を玄関の方へ、左側へと傾けていった。  怖い。見てはいけない。そう思うのに、体はちっとも言うことを聴いてくれない。 「……ち」  自分の真横から、覆いかぶさるような黒い影。恐怖と、混乱と――それだけではない驚きで、思わず仁は叫んでいた。 「ち、近すぎて真っ暗で何も見えねえよおおおお!」 「!?」 ――って声出るんかーい!  心の中で、仁は盛大にツッコミを入れていた。瞬間、自分の真横にいた黒い影が、驚いたように後ろに飛び退く。その結果、“至近距離過ぎて全然見えなかった”影が、暗闇の中でうっすらと見えるようになっていた。飛び退いて座り込んだ、その人物は。 「おいちょっと、急におっきな声出さないでくれる!?超びびったんですけど!」  長い髪の、高校生くらいの青年だった。彼は腰が引けた状態で叫んでいる。 「声でかい!今何時だと思ってんの、ご近所迷惑でしょ!」 「あ、はい……すみません……?」  なんだ、その人間みたいな反応。俺は恐怖を忘れて、ついつい謝罪を口にしてしまたのだった。いや自分、この状況で1ミリも非はないと思うのだが。
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