離れたもの、入り込んだもの

1/1
前へ
/1ページ
次へ

離れたもの、入り込んだもの

 どうせもう冷たくなってんでしょ、わたしには生きて動いている子供がいるんだからお願いねと、腎臓を長いこと患っていた猫が亡くなったという報せを母親からスマホにかかってきた電話で知った私は、早退しようと思った矢先で同僚に止められてしまった。  言葉を失い、固まっていた私の反応を肯定もしくは納得と受け取ったらしく同僚は今朝から自分が頼まれていたやや面倒な表作成や資料作成を私へ乱雑に丸投げし「お先に、保育園と学童保育のお迎えがありますから」なんてそそくさと帰り支度して、事務所を出て行く。私は一部始終を見ていた上司にも助け舟を出されることなく、彼女が放置した仕事を終わらせ、日付が変わる少し前に帰宅した。  まるで眠るようにしている亡骸の前で両親はうずくまり、泣いていた。  触れた背中がゴツゴツと骨張っており、身体はとうに冷たく固くなっていた。もう、ここから魂が「離れた」のだなとわかった。  あなたが帰ってくるまで待っていようとしていたみたいだけれど、昼過ぎに容態が急変して……病院に駆け込んだけれど心臓がすでに止まって、呼吸も……。  母の説明に私は嗚咽をもらし、やがてそれは号泣へ変わる。  同僚の言葉が、ひしひしと私を蝕んでいたことに気付かされ、苛立った。  その夜はお気に入りだった桃色の膝掛けにくるんだ猫の亡骸をベッドに入れて、抱きしめるようにして眠った。時折目が覚め、もう鳴かない、動かない現実に「間に合わなくて、ごめんなさい」と謝りながら。  翌朝、顔は腫れているし熱っぽさがあるので休もうと会社に連絡をしたら、同僚も急に休んでしまい、出てきてくれるとありがたいと上司から言われる。彼女には申し訳ないが、あやしいもんだと思いつつ「どうかしたんですか」とダメ元で訊ねてみたところ、耳を疑ってしまうような話を、上司はここだけにしておいてと前置きして打ち明ける。  お子さんがね、急に四つん這いになって家中を暴れ回ったそうなんだ。  それで、繰り返し言うんだって。  どうして会わせてくれなかった、どうして会わせてくれなかったって。  代わりに持っていくぞ、こいつを持っていくぞって。  私は「ああ、そうですか。でも私もちょっと……今日は無理です」と答えて「こちらとしても、お弔いがありますのでやはり休ませてください。そうでないと次は……わかりますよね?」と付け加える。  もういい、私は大事なものが離れて行った身のうえだ。  あの子のために病院代を稼いだり、餌代を稼ぐ必要もない。  なんだかすごく、気が抜けてしまった。  追い出すなり、責め立てるなり好きにすればいい。  上司は自棄になっている私の言葉に対して「ヒィ」と情けない声を吐くと「わ、わかった、ちゃんと見送ってあげなさい」と早口で言い、電話を切った。  お陰で無事に火葬前のお清めからお別れ、それからご遺骨になってから置くための祭壇を準備して、肉体からも苦しさからも離れた猫と、言葉は交わさないけれど穏やかで静かな時間を家族とともに過ごすことができた。  スマホにはひっきりなしに同僚からラインと着信が入ってきたが、返信せず無視をして、ディスプレイ画面に浮かぶ、きわめて子供じみた罵詈雑言をそのままスクショして上司に送った。  もう焼いてんでしょ?骨になった?  あとは親にまかせりゃいいじゃん、戻ってきてよ。  猫のくせに火葬なんて、生意気だよ。庭に埋めりゃいいんだよ。  飼い主に似て生意気、むかつく。  黙ってはいはいって全部やってりゃいいんだよ、こっちは子育てっていう大事な仕事してんだから、あんたみたいな畜生飼いとは違うんだよ。  どうして私が「出社しろ」なんて、みんなに言われなくちゃいけないんだよ、行くならあんたじゃん?  約束だってあったし……息抜きだって、ママには必要だから……。  ママ友に嫌われたらあんたのせいだ、うちの子がひとりぼっちになったらかわいそう。  もしそうなったら、絶対許さないから。謝罪してもらうから。  子供が学校と保育園行ったら、出かける約束してたのに。  変なこと言い出して、暴れるから、何もかもドタキャンよ。  全部うまくいくと思ってたのに、あんたと違って、勝ち組になったって思ってたのに。  負け組は勝ち組のために、ひいひい働いてりゃいいんだよ。ふざけんな。  なんだか、ボロを出している気がしてしかたない彼女のLINEをひたすらスクショして送るにつれて、上司もさすがにオオゴトとようやく重い腰を上げて、人事へ相談しに行ったらしく、人事にもメールするようにという指示がきた。  百通以上人事ともやりとりしただろうか、送信するだけでげんなりしてしまい、私はまだあたたかい猫の遺骨を抱いて、うろ覚えの子守唄を歌いながら眠った。  その翌日、同僚の机は子供の写真や事務用品が並んでいたのに、新品のように何も残っていなかったため新人に「どうしたの?」と確認してみれば、同僚は昨日付で辞めることになり、私物は段ボール箱に入れて着払いにして送ったとのこと。  なお、子供はまだ元に戻っていないそうだ。 「お祓いとか、門前払いみたいですよ……?もう手の尽くしようがないからって。砂場を見ると四つん這いで駆けて行って、そこで用を足したりして、止めるのにも大変なんですって……」  上司は上司で、ふたりのやりとりが一段落したのちに「注意すれば配慮がない、優しくない、理不尽だとあれこれ泣いて騒ぐからつい放置してしまった、負担をかけてしまい申し訳ない」と頭を下げてわびてくれた。  ところで、この話には後日談がある。  子供の不調や学童、保育園のお迎えを理由に早退や遅刻、時には急に数日間の欠勤などを繰り返してきた同僚だが、理由は子供ではなく、別だということを離婚した旦那さんが直接会社に出向いてくれて、恥ずかしい話ですがと上司と私にだけ、耳打ちしてくれた。  彼女は複数の男性と交際しており、会っている間は子供に「良い子で待っていないと、ママ帰ってこないから。パパに言いつけたら、車で山に捨てるからね」と脅され、無理矢理に家へ閉じ込めていたと本人が口を割ったという。  もう離婚する手続きは始めており、子供たちは今でこそ実家に住まわせていものの、いまだ猫のようににゃあにゃあと鳴き出し、生魚をむさぼるのだという。 「あの子、生魚なんて食べさせたことないのに……」 「え?」 「いえ、すいません。こちらのことです」  ひとりごちた記憶を耳に入れられ、私は心の中に疑問を抱きつつ旦那さんの謝罪を受け入れた。  あの子は、どこで子供たちと「離れて」いったのだろう。  そして今、子供たちには「なにが」入りこんでいるのだろう。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加