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 その日はいつもより月が大きく見えた気がした。満月の夜だった。窓から差し込む青白い月の光は、殺風景な部屋の様子を明瞭に浮かび上がらせ、(おびただ)しい量の赤黒い血だまりに光の筋を落とし続けている。  血だまりの中では、やたら肥えた男が腹から血を流し仰向けに倒れていた。生気に欠けた空虚な眼差しを白い天井の一点に向けたまま、男は微動だにせずじっと固まっている。  男の顔の真横には放り投げるようにして包丁が置かれていた。刃先を見ると赤黒い血と人間の脂肪と思われる黄色いものが入り混じるようにして付着しているのが分かる。  僕は男の目の前で軽く手を振ってみて、何かしら反応が返ってくるかどうか探ってみることにした。男の瞳孔は開きっぱなしでまばたき1つすらしなかった。間違いなく男は死んでいる。そう確信した途端、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったからなのか急に全身から力が抜けてしまい、僕は思わずその場に座り込んでしまった。言いようのない疲労感と倦怠感が一気にのしかかってきて、頭がぼんやりとしていた。  やるべきことをやるためには外に出かけなくてはいけないのだけども、このままでは外に出るのは流石に不味いだろう。まず全身に纏わりついている不快な血の臭いを洗い流す必要がある。そう考えた僕は死の匂いが充満する居間を抜け、脱衣所に向かった。脱衣所の電気は付けなかった。窓から降り注いでくる月明かりだけで浴室は十分に明るく感じられた。  男の返り血がべっとりとこびり付いた衣服を脱ぎ、裸になった。脱いだ衣類は洗面台の隣にある洗濯機の中へ放り込む。証拠隠滅のため焼却して処分することも一瞬考えたが、そうなってくると室内に放置しているセンセイの遺体の後処理のことを考えなくてはいけなくなることに途中で気づいた。こんな単純なことすら考えられないぐらい頭が回らなくなってしまっている自分に僕は思わず驚いてしまった。計画性のない犯行はすぐ明るみに出てしまう。素人がどれだけ細工を死体に施してもプロの鑑識の目を誤魔化すことなどできないのだから余計なことをして墓穴を掘るより、むしろ何もしない方がずっと良いに決まっている。  僕は洗面台の前に立って鏡を覗き込んだ。骨と皮だけの貧相な自分の身体が闇の中でぼんやりと浮かびあがっている。  ――ちゃんと殺せたか?  鏡の向こう側には僕と同じく裸になった兄の姿が映し出されている。兄は真っ直ぐ僕の目を見据えながら語りかけてきた。  うん。ちゃんと殺したよ。兄さん。  ◆◆◆◆  赤、白、黄色。色とりどりの傘を片手では数え切れないほどの多くの人間が交差点を行き交っている。僕は新しい服に着替え、電車に乗って隣町まで来ていた。  足音や車のクラクションは渾然一体となって互いに互いの音をぐちゃぐちゃに塗りつぶし、溶けて混ざり合いながら都会の夜空へと吸い込まれるようにして消えていく。  雨に濡れたアスファルトはハロゲンライトの光を反射させ、眩い輝きを辺りに撒き散らしていた。喧しい音の洪水から逃れるために僕は降りしきる雨の中を傘もささずに歩き続けた。  繁華街の雑踏をのがれ、街灯も疎らな暗い裏通りへ足を踏み入れる。自然と足は祖母との思い出が詰まった公園へと向かっていた。もしかすると人間にも鳥や虫のように帰巣本能みたいなものが備わっているのかもしれないなどと、どうでもいいことに思いを巡らせながら歩いていると、あっという間に市営住宅の敷地内にひっそりとたたずむ小さな公園に辿り着いた。  誰もいない真夜中の公園は海の底のようなひっそりとした静けさに包まれている。  僕はベンチに腰掛け、膝の上に置いた自分の右手を見つめた。握っていた包丁が皮膚にずぶずぶと沈み込んでいき、分厚い脂肪という名の鎧の下を通る太い血管を断ち切った時の、肉が刃先を押し返してくるあの感覚がまだ右手には残っていた。
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