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舟蟲という悪徳警官
1
東京、千鳥ヶ淵。
モノクロフィルムのような夕陽が古い聖堂を照らしている。聖堂の屋根には尖塔があって、隣接する二層構造の大使館の庭へ長い影を落としていた。
その大使館は建設現場用の高い塀でぐるりと囲まれている。聖堂と大使館の間は国境のような塀が伸びていた。
まだ五時前だというのに、大使館はひっそりと静まりかえっていた。窓には明かりすら灯っていなかった。
ミャンタイ共和国大使館とは名ばかりで、現在はほとんど機能していない。 国境地帯の武力衝突と債務不履行により、本来の国家は形骸化していた。大使館としての機能は三年前に喪われたが、現在は一名の館員が残っており、土地と家屋の売却先を模索している最中であった。
「そろそろ時間です」
大使館職員兼守衛係のマートル・ピレイが黄色い安全ヘルメットの庇をあげた。黒い眸が不安そうに上下している。
「そうだな」機動捜査室風紀課の舟蟲箕六警部補は、マゼンタ色に染まった夕空を見上げながら頷いた。「門、開けていいぞ」
「了解です」
マートル・ピレイは滑らかな日本語で応じると、手元のリモコンボタンを操作した。
大使館の裏門に設けられた工事車両用の門が開き、大型のコンクリートミキサー車が排気ガスをまき散らしながら入ってきた。
ミキサー車がすっぽりと敷地内に収まってしまうのを見届けてから、ピレイはリモコンを再び操作した。車両用の門がゆっくりと閉まっていき、重苦しい金属音がそれを知らせた。
ミキサー車の運転席から茶髪の男が顔を出した。暴力団房総連合会の蛆島彪だ。野球帽を脱ぎ、舟蟲たちを見下ろしながら薄笑いを浮かべた。
「うーっす。本日はリャンピンで頼んます」
龍タトゥの腕を突き上げる。典型的な不気味さ誇示の男だった。
舟蟲箕六は顔をしかめた。リャンピンとは処分死体が二体あるということを意味する。
舟蟲箕六は三十五歳、独身。古臭いグレイのスーツをいつも着ていて、その後ろ姿が海辺のフナムシにそっくりなことから、舟蟲と呼ばれている。だから舟蟲は本名ではない。本名は船田だが、誰も彼の本名を呼ばない。ふなさん、フナムシ、舟蟲さん。三十五にしては背格好も容姿も老けているから、なおさらしっくりしている。
舟蟲は売春、麻薬絡みの性犯罪、ぼったくり風俗店の取締りを行う風紀課の捜査員だが、もちろん真っ当な警官ではない。盛り場の違法行為に目を瞑る代わりに金銭を受け取る。反社会的勢力の死体処理にも手を貸す。
見返りは、死体10キロ当たり30万円。舟蟲は勝手に相場を決めていた。
館員兼守衛のマートル・ピレイが誘導をはじめると、ミキサー車は方向転換してバックをはじめた。バックランプが大きく光って停止した。
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