今日から僕は君のもの 〜眼鏡令嬢と拗らせ騎士の初恋〜

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「今日から僕は君のものだよ、アデライーデ」  遠くから聞こえる楽団の奏でる華やかなワルツ、浮き足立つ人々の喧騒。  ルートガーの黒髪のようなダークブラウンの髪が揺れ、蒼灰色の瞳が仄暗く揺らめく。  私の肩に顔を埋め、ルートガーの高い鼻が私の首筋をくすぐり、唇を優しく這わせながら熱く息を吐いた。 「ル、ルー…」 「いい匂いがする…」  その声にぞくりと背筋が震える。  ルートガーはそのまま耳裏に鼻を当て優しく唇を這わせると、はむ、と耳朶を口に含んだ。 「まっ、待ってルー!」 「待ったよ。凄く待った…」  確かに私が子供の頃からずっと好きでいてくれて、誰とも関係を持ったことがないと言うのが本当なら、確かに凄く待ったでしょうけど…!  ちゅ、ちゅ、と音を立てて私の首筋や耳に口付けを落として、ルートガーは深くため息をついた。 「……キスがしたい、アディ」  初心者がそれを聞かされるって、どうなのか。 「る、るー…」 「……いいって言って、アディ…お願いだ」 「ず、ずるいわ…!」 「お願い。…したい」  ルートガーはそう言いながら額を合わせ、熱い吐息を吐いた。  とてもじゃないけれど私は、心臓が持ちそうにない。    ***  幼馴染である三歳上のルートガーは、私の実家である伯爵家領地の一部を管理する子爵家長男。  互いの両親は昔から親交が深く、幼いころから私たちは共に過ごし共に成長して来た。病弱で学園に入学出来なかった私と違い、ルートガーは王都の学園に入学し寮生活を送るようになったけれど、長期休暇には必ず戻って来て一緒に過ごしていた。  黒髪のようなダークブラウンに青灰色の瞳、色白で、人好きのする柔和な笑顔と物腰の柔らかな美しい所作。  文武両道、学問に秀で剣技にも優れる彼は、麗しさも加わり学園中の令嬢方を虜にしていた、らしい。  そして、田舎の領地に引っ込んでいる私の耳にも入るほど、彼の女性遍歴は凄まじい。  やれ、どこそこの未亡人と付き合っている、高貴なお方に呼ばれお相手している、学園の令嬢と二人で逢瀬を楽しんでいる、などなど。  でもそれら全て、私には違和感しかなかった。  あのルートガーが?  優しくていつも穏やかなルートガー。  病弱で一日の殆どを家の中で過ごしていた私と一緒に、庭を散歩し池のほとりで水鳥に餌をやり、風邪をひいて寝込むと必ず見舞いの花や絵本を持って来てくれて、枕元で読み聞かせてくれた彼が、数々の女性と浮き名を流している?  会えるのは長期休暇の時だけだったけれど、夏や冬に会う彼は私の知っている彼で、噂の人物と同一人物とは到底思えなかった。  けれど、その噂を目の当たりにする日がやって来る。 「アデライーデ!アディ!どうしたんだ出ておいで!」  それは私の十六歳の誕生日。  朝から侍女にあれこれと着せ替えられ髪にリボンもあしらわれ。鏡に映る自分の姿にげんなりした私は自分の部屋に逃げ込んだ。  私を追ってきたお父様の悲痛な声が扉の向こうから響いた。 「今日はアディの誕生日じゃないか。アディのことをお祝いしたくて皆集まったんだよ」 「私がいなくても皆様は楽しく過ごせるから大丈夫よ」 「そんなことないよ…!」  デビュタントを迎える年齢になった私に友人を作ろうと、両親が近隣の貴族へ誕生日会の招待状を送った。  学園に通っていない私の誕生日会など誰が来るのかと思っていたけれど、多くの貴族から出席の返事があった。  両親は沢山友人が来てくれると喜んでいたけれど、私は彼女達を誰一人知らなかった。  そもそも、病弱で十二歳の時に学園に入学出来ず、自宅でずっと家庭教師に勉強を教わっている私を知る者などいない。  幼い頃は伯爵令嬢であるからと、歳の近い令嬢からお茶会の招待状が届くこともあったけれど、招待されても風邪をひいたり熱を出したり、間が悪く殆ど出席をしたことがない。  そしていつまでも姿を現さない私はいつからか、幽霊令嬢と呼ばれるようになった。  青白い肌、痩せ細り老婆のように曲がった背中、真っ白で傷んだ髪。  夜にならないと活動しない伯爵家の幽霊令嬢。夜中に庭を歩いているらしい、食事は殆ど口にせず動物の血を飲んでいる、などなど。  当時の私は「ナニソレ、バッカじゃないの」と冷めた気持ちで聞き流していた。だって全然違うから。  病弱だからこそ早寝早起き。お天気がいい日は庭に出て太陽の光を浴び、食事も栄養価の高いものを中心に口にしていた。  自慢の赤い髪は侍女によって毎日丁寧に梳かれ、陽の光を浴びると艶めき濡れたような輝きを放つ。自分で言うけど、本当に髪は美しいのだ。  けれど、そんな作り話を面白おかしく話し、なにが面白いのか笑い合う令嬢方。  対して私は、幼い頃から話し相手は年嵩の執事や侍女ばかり。知識だけが蓄積された、ませた子供だった。  社交界の噂話などに詳しかったのは使用人たちのおしゃべりを漏れ聞いたもので、閨教育はまだだったけれど耳年増になるのも仕方ない。分からないことは書庫で調べればよかったし。  でも、当の私は十六歳になっても月のものもまだで、背ばかりが伸び身体は細く幼いまま。そのことが私を卑屈にさせていたのだと思う。  そんな大人びて冷めた子供だった私と年頃の令嬢達。どう考えても話など合うはずがなかった。  そうしてやがて、私にお茶会の招待状は来なくなった。  ところが、そんな幽霊令嬢の誕生日会に出席すれば、学園で一二を争う俊秀、将来有望の子爵家長男であるルートガーに近づくことが出来ると、今回の招待状を受け貴族達が色めき立ったのだ。  出席しない手などあるだろうか。  私が親なら是が非でも出席させる。それでこの出席率なのだ。 「アディ、ドレスは気に入らなかったかい?お母様と相談して決めたんだよ」 「……ありがとうお父様、凄く素敵なドレスよ」 「アディの髪と肌に一番似合う色を選んだんだ。さあ、僕たちにもドレス姿を見せておくれ」  お父様の必死な声が扉の向こうから届く。  きっとその後ろではお母様もオロオロと様子を伺ってるのだろう。  皆が私を心配してくれている、愛してくれているのはよく分かってる。でもわざわざこんな自分を晒すのが嫌だったのだ。   けれど結局、いつまでも籠城など出来る筈もなく、私は諦めて扉を開けた。 「アデライーデ!やっぱり、とても似合うよ」 「アディ、とっても可愛らしいわ。さあ、お母様にもよく見せて」  お父様もお母様も涙ぐみ、私をふわりと抱きしめる。  でも、私にはとてもじゃないが正気とは思えない。どんなに豪華なドレスを用意しても無駄なのだ。  この眼鏡がある限り。  私は小さい頃から目が悪く、ずっと眼鏡をかけている。  当時、大人の眼鏡はあったけれど子供用の眼鏡などなくて、大きな黒縁の眼鏡をかけ、落ちないように頭の後ろでリボンで留めていた。  分厚いレンズは瓶の底のように渦が巻いていて、かけると瞳がとても小さくなる。瞳の色なんて分からないくらいに。  こんな姿の私が可愛らしいドレスを着ても似合うはずがない。私自身、眼鏡がない自分の姿など見えないのだ。  それでも両親の気持ちを台無しにするわけにも行かず、私は渋々、もの凄く渋々、彼等と共に会場へ向かった。  会場は予想通り、令嬢方の美を競う女の戦場と化していた。  初めは皆、一人一人私の元に挨拶に来て贈り物を手渡し、祝いの言葉を述べる。私も型通りのお礼を述べて受け取り、パーティーを楽しんで、と声を掛けると、ソワソワした令嬢はそれでは、とホールの人だかりへと戻って行くのだ。  その中心にいる人物、ルートガーに話しかけるために。  そうして一通りの挨拶が済み喉が乾いた頃、当然私は一人になった。主役なのに。  ため息を飲み込み、飲み物を取りにテーブルへ向かうと何故か人の騒めきが近くなった。 「アディ」  柔らかな声、優しい響き。  聞き間違えるはずのないその声を無視しようかと思ったけれど、周囲の視線はもう既にこちらに集まっている。  私は仕方なく振り返り、美声の持ち主を見上げた。 「ルー」 「アディ、久し振りだね。元気だったかい?」  ふわふわと柔らかな笑顔を私に向けるルートガーを見て、令嬢方からため息が漏れる。 「ええ。ここのところ体調はいいの」 「良かった。成長と共に体力もつくとお医者様が言っていたからね。それに…背も伸びたんじゃないかな?」 「そうかしら」 「うん、そうだよ。レディらしくなったね。薄い緑のドレスも君の赤い髪にとっても似合ってる」 「…そんな訳……」 「可愛いよ。……誕生日おめでとう、アディ」  ルートガーはそう言うと私の前髪を指先で撫で、額にそっと口付けを落とした。あちこちで悲鳴が上がり、後ろの令嬢がもの凄く睨んでくる。  私は居た堪れなくなって思わず一歩後ろに下がった。ルートガーが悲しそうな表情を浮かべた。 「アディ?」 「何でもないわ、ちょっと疲れてしまって…」 「大丈夫かい?どこかに座ろうか」 「ルートガー」  私達にかけられた落ち着いた声。振り向くとルートガーと同じ年頃の綺麗な女性が、湖のような薄水色のドレスを身に纏い微笑んで立っていた。  黄金の髪を綺麗に結い上げ真珠を散らばせた清楚な出立なのに、大きく胸元の開いたドレスが妖艶に見せていてとても美しい。  ルートガーが驚いたように目を瞠いた。 「ブランケ子爵令嬢」 「他人行儀ね、ルートガー。エリザベスって呼んでと言ってるでしょう?」  エリザベスと名乗った女性は目を細めてルートガーを見た。ルートガーは困ったように視線を逸らす。  エリザベス嬢は肩を竦めて見せると、私に向かって艶然と微笑んだ。 「ご挨拶が遅れました、エリザベス・ブランケと申します。本日はお誕生日おめでとうございます」 「…ありがとうございます」 「主役の方を独り占めしてはご迷惑だわ、ルートガー。さあ、あちらで食事をいただきましょうよ」 「いや、僕は……」  ルートガーは私に視線を向け何かを言おうと口を開いたけれど、私はその視線から逃げるように顔を背けた。  結局、ルートガーはエリザベス嬢に腕を取られ人だかりの中に消えていった。  私は人々の視線が自分から離れたのを確認するとため息をつき、そっとホールを抜け出してテラスから庭へと降り立った。  私のために飾り付けてくれた庭をゆっくりと鑑賞する。誰もいないこの庭が、一番落ち着く場所だった。  庭をのんびりと歩きながら、お気に入りの四阿へ足を向けた。  ベンチに腰掛け息をつくとすぐ、四阿の先にある生垣の向こうから男女の話し声がすることに気が付いた。  大人びて耳年増だった当時の私は、すぐにピンと来た。  でも、知らないふりができるほど大人でもなかった。  そっと足音を立てないように生垣に近付くと、すぐにその声の持ち主が先程のエリザベス嬢だと分かった。 「いいじゃない、場所が変われば気分も変わるわよ。ね…」 「駄目だやめてくれ……っ、あ」 「あら?どうしたの…ねえ、今日もしかして…」  生垣の向こうを覗き込むとエリザベス嬢がルートガーの隣に座りドレスの上をはだけさせ、艶めかしい肌を見せている。ふるりと揺れる豊かな双丘に大きな手の手首を掴み触らせているようだ。  そして、その手の持ち主の声を聞き間違えるはずもなく。  前述したように、私は大人びていて可愛くない思考の子供だった。妙に冷めていて、あまり感情的になることもない。  それはこの場でも発揮された。  いや、されなかったのかも。  だって、そのまま素知らぬ振りで立ち去ればいいものを私はしなかったのだから。 「ブランケ子爵令嬢」 「「………!!」」  突然声を掛けられた二人が飛び上がり驚いた。人間、本当に驚くと声も出ないらしい。 「そろそろ会もお開きですわ」 「ア、アディ…!」  ルートガーが慌ててエリザベス嬢から身体を離した。エリザベス嬢も慌てて胸を隠しドレスを整える。 「アディ、アディあの…」 「ルートガー」 「聞いてアディ、これは…」 「そういうことは他所でやってちょうだい。その場所、私のお気に入りだったのに…台無しだわ」  自分でも驚くほど冷たい声が出たと思う。 「アディ!」 「近寄らないで、ルートガー」 「アディ…っ」  何故ルートガーが泣きそうな顔をするのか分からない。さっきまでエリザベス嬢の胸を触っていたのに? 「噂通りだったのね………二度と家に来ないで」 「アディ!」 「ブランケ子爵令嬢もこのままお帰りください」 「え、私は…」 「アディ待って!!」  ルートガーが立ち上がり私に手を伸ばした。私はその手を思いっきり身を引いて避けた。 「近寄らないで。気持ち悪い」  その時の表情のない真っ白な顔のルートガーは忘れられない。  彼に会ったのは、それが最後。  それが私の十六歳の誕生日。  それが私の、初恋が終わった日だった。
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