第六章 昔がたり

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藩主の命で俺たちが向かったのは紀州東照宮のほど近く、和歌の浦の「法福寺」という真宗本願寺派の寺だった。 洋式兵としての訓練を受けるように沙汰があったため、てっきり藩兵に混ざって調練するものと思い込んだ俺は拍子抜けしてしまった。 そもそも紀伊では早くから洋式兵の銃隊に着目している。 九年前の黒船来航以来、主に紀伊の附家老兼新宮藩主・水野忠央(ただなか)の献策で洋式砲術の導入が進められていたのだ。 それがどう寺と結びつくのかと訝しく思っていたのだが、寺域へと近付くにつれて否が応でもその正体が明らかになってきた。 境内の方から聞こえてくるのは、凄まじいまでの練武の声。 竹刀撃ちは元よりおそらく隊列となっての集団戦の稽古、そして銃砲の音までもが轟いている。 いよいよもってその気合は猛々しく、山門に至ってはそこに架けられた大看板の文字にぎょっとなった。 「日本体育共和軍隊」 雄渾な筆でそう書かれている。 「どういう意味だ」 思わず口走る俺に、隣で東堂が薄く微笑みかける。 「私にも分からない。……が、専修(せんじゅ)念仏でもないことは確かだ」 (おとな)いを告げると応対に出たのは寺僧と思しき若者だったが、びっしり汗を吸った稽古着姿で今しがたまで訓練に打ち込んでいたことを思わせる。 案内(あない)されるまま門を潜ると、眼前には至る所で男たちが鍛錬に励んでいた。 竹刀を握る者は数知れず、いずれも面金はおろか胴も着けていない。 またある者らはひたすら槍を扱き、ある者らは筵の上で組み合っている。 そして、ある一隊は銃の扱いを稽古していた。それも種子島ではない。洋式銃だ。 それはまるで大陸の古い読み物にある豪傑たちの巣窟、梁山泊を思わせた。 俺たちが引き合わされた男は、遠目にもすぐにそれと分かった。 本堂に至る(きざはし)の上から、ぎょろりとした眼玉を巡らせて訓練を督励している髭面の大入道。 まさしくの偉丈夫だ。 寺僧に案内された俺たちを鋭い眼光で見下ろしたが、東堂は微笑んで大入道の正面を避け、まず御堂におわす本尊に向けて合掌した。 寺である、ということにおいてはまことに礼に適っている。俺も同じく御仏に礼拝し、改めて御坊に向き直る。 「心掛けのええこっちゃ」 野太い濁声に似合わず、にかっと破顔すると存外な愛嬌が滲み出た。 法福寺住職、北畠道龍(きたばたけどうりゅう)――。 南朝の忠臣にして“花将軍”と称えられた、鎮守府将軍・北畠顕家卿の末裔という僧だ。 が、ただの僧侶ではない。 幼少より文武に秀でた道龍はやがて武芸に傾倒し、剣・槍・柔の術に精通して二十歳の頃に諸国漫遊の旅に出たという。 そうして各地の学問を吸収し、志士らとの交流の末到達した答えが今眼前で繰り広げられている光景、すなわち「民兵」の育成だ。 稽古に励む者らはいずれも一目で武士ではないことが分かる。僧を除くと周辺の漁民や農民らが大半だろう。 道龍はその旅と学びの中、時代の趨勢から国防の要を強く感じるようになったという。 そこで思い至ったのが、危急存亡の(とき)には武士のみならず刀槍を執って戦うべしという、いわゆる「皆兵」の考えだった。 のちに分かったことだが、これは長州奇兵隊に先んじる本邦初の民兵組織だったのだ。 山門にあった「日本体育共和軍隊」とはその正式名称で、この部隊はやがて「法福寺隊」として勇名を馳せることになるが、この時の俺には無論知る由もない。 「殿様から言いつかっちゃある。よう励んでや」 ただそれだけを言って、道龍は気合が乱れ飛ぶ練武の群れへと踊り込んでいってしまった。 俺たちの務めとは、この法福寺隊に加わって訓練することだったのだ。 すっかり気を呑まれる思いではあったが、命とあらば従うほかない。 隣の東堂を窺うと、まるで魅入られでもしたかのように洋銃を扱う男たちを見つめている。 どこか妖しい熱を帯びたその眼差しに、俺はなぜか不吉なものを感じていた。
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