うさぎと患者《クランケ》

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 そしてテレビボードの横の、長方形の箱の扉を開けた。観音開きの扉の向こうにあったのは遺影だ。これは仏壇なのだと有坂は悟った。遺影の中にいたのは線の細い美青年だった。本条をギリシャ彫刻の英雄に例えるなら、こちらの青年は絵画の中のたおやかな女神のようであった。 「僕の恋人なんだ」  恋人、という単語に有坂の胸は軋んだ。 「雅也も交通事故にあって……身体は無事だったけど頭を打ってたみたいで、脳からの出血に気づかなくて、病院に行った時にはもう手遅れだった」  一緒に住んでたのに、と床に落ちた言葉には、途方もない後悔と嘆きが込められていた。 「でも、雅也は死んでなんかいないよ。今も生きている」  振り返った本条の顔はなぜか微笑んでいて、有坂はゾクリとした。本条はスマートフォンの画面を有坂の前に突き出す。悲鳴をあげそうになった。スマートフォンの電話帳の連絡先には、森原雅也と言う名前がびっしり並んでいた。その横に、本条の形のいい指先が添えられる。 「脾臓だよ」  何を言われたのかわからなかった。有坂の思考が止まる。 「腎臓、大腸、血管、心臓、大腿骨、腹斜筋に横隔膜に骨盤」  本条は上から順に連絡先の名前を指差していく。有坂は本条が言っていることの意味がわからず、ただ恐怖に震えている。 「角膜。これが君だよ」  ぴたり、と何番目かの森原雅也という名前の横で、本条の指が止まった。本条の言葉を、そして行動の意味を反芻する。理解したくないと直感が叫ぶが「調べたから間違いないよ」と、あの雨の日に持っていた茶封筒の中身を見せられ今度こそ絶叫した。  その書類には、提供者の欄に森原雅也の名が、そして患者の欄には有坂スバルと記されていた。  有坂は咄嗟に本条の手を払い除けた。白い書類が宙を舞う。有坂は這うように玄関に向かった。 「お願い、逃げないで」  背中からのし掛かるように本条に抱き留められる。あんなに触れられたいと、抱かれたいと夢想していたのに、今は拒絶反応しか出てこなかった。腕や足をめちゃくちゃに振り回す。それでも一回り大きい本条の身体からは抜け出せない。 「君が話したこと、全部合ってるよ。行った場所も、のぼりの色も、ウサギのことも全部。わたあめは、雅也が居なくなってから飼い始めたんだ。君のこと、僕は信じるよ」  有坂はピタリと暴れるのをやめた。信じる、という言葉が鎮静剤のように、昂った神経を鎮めていく。 「もう少しだけ、僕の側にいてよ。せめて、お別れのための時間が欲しいんだ」  
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