本編

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 僕の朝はいつも、香ばしいクッキーの香りから始まる。  今日もまた同じ、しかし飽きない香りがふわりと瞼を叩いて、僕は目を覚ました。  いよいよ真冬が近づいて、上着が手放せない。年季が入り薄くなった、お気に入りの羽織に袖を通す。  くるぶしのあたりに兎の毛があしらわれたブーツの踵を鳴らし、ベッドから降りる。 「ディラン、起きたのか」 「うん、おはよう父さん」  焼き上がったクッキーを窯からあげた父さんが僕に気づいた。 「今からマフィンを焼くから、その間に新聞を買ってきてくれないか」 「分かった。行ってくるね」 「気をつけてな」  父さんは町一番のパン屋さんだ。僕の中ではこの国で一番おいしいと思ってるけど。学校のみんなもおいしいって言ってくれる、自慢のパンだ。  ドアにかかった手袋は、うちの一風変わった看板だ。軋みはじめたドアを開けて、舗装された道路に出る。  とたんに、冬の吐息が僕の全身に吹き付けた。特に耳を掠めた風が冷たい。 「うぅう、寒い寒い……」  抱えるようにして腕をさすり、少しでも体温を高めようとする。    どうやら、今年の冬はいつもより寒いらしい。  町の大人たちがしきりに噂をしているし、僕もたしかに寒いと思う。 「新聞、新聞ー! 王都で花の祝祭があるそうだ、買ってきな!」 「お兄さん、一部おくれよ」  こんな寒い中で刷りたての新聞をぼろぼろの革鞄に詰めて新聞を売っていた青年に硬貨を三枚渡す。 「はい、ちょうど。このところ毎日来るけど、坊や、文字が読めるのかい」 「ある程度は。今日から学校に行くから、練習をね」  そう言うと、青年は目を丸くして新聞を手渡してくれた。 「へえ、坊やがか。真面目だな」 「僕じゃないよ、父さんが見てるんだ」 「ははあ、なるほどね。まいど!」  ちょっと手を挙げて、青年はまた声を張り上げて待ちゆく人に新聞を売りつけ始めた。  家に帰ろうと振り返る前、ふと空が目に入った。  どんよりと曇り空なのはいつものことだが、雨のにおいに煙たいものが混じっている。    この街の北には、古くからの石造りのまちであるここよりも「発展した」工場街がある。  その工場からはもくもくと湿っぽくて黒い煙が上がっている。  きっとこの町よりもずっときれいで便利な町なんだろうと思う。この町の人々も工場街ができたはじめの方は僕と同じように思っていたらしい。  でもなぜだか最近は、工場街の人が町に入って来たら冷たい目で見るようになった。あっちのまちから来た人はみんな肺が悪くてみすぼらしい恰好をしている。父さんよりたくさんお金はもらっていそうなのに、不思議。  大人たちが言うには、今、その工場街が少しずつ広くなっているらしい。  いずれはこの町も、王様の命令で工場街になるのだとか。  あんなに煙が上がっているなら、たぶんパンは作れない。便利な機械はなくてもいいから僕は父さんがパン屋さんをやれるこの町のままがいいけど、王様はあまりパンが好きじゃないのかもしれないな。 「あっ、早く帰らないと。遅刻するのは嫌だもんね」  口元が緩む。新聞を抱えて走った。  そう、今日から僕は学校に行く。  もとはこの町のこどもは学校には行けなかったけれど、王様が許可してくださったらしい。  優しい王様だけど、パンが好きだったら僕はもっと王様を好きになれるのに。 「ただいま、父さん。新聞買ってきたよ」 「おかえり。マフィン焼き上がったから、食べなさい。フォークは洗って使うんだよ」 「うん。いただきます」  湯気を上げるマフィンが僕のさらにちょこんと二つ乗っかっていた。  昨日の夜つかったフォークを水にじゃばじゃばつっこみ、布で水分をふき取る。  くすんだ銀色のフォークでマフィンを二つに割る。 「あれ、バターは?」 「すまないな、今切らしていて……ハムがあるから、それを食べなさい」 「はーい。帰りに買ってくるよ」 「助かる」  燻製したハムを薄く一枚切り、マフィンと一緒に食べる。  うん、おいしい。やっぱり父さんはとびきり腕のいいパン職人だ。  最後の一口を放り込んだちょうどそのとき、家の扉がノックされた。 「どなたでしょう」 「王都国立学園の者です。新入生徒、ディラン・ライトを迎えにあがりました」  父さんが扉を開けると、そこにはきれいな身なりの女性が一人、立っていた。  口元には微笑が浮かんでおり、佇まいから育ちの良さが滲み出ている。 「お父上でしょうか。ディランさんは……」 「は、はい。僕です!」  フォークを置いて背筋を伸ばし、立ち上がる。 「用意はできていますね。学園へ向かいますよ」 「分かりました! ええと、荷物をとってきます」  僕の先生になる人だろうか。急いで部屋に戻り、買ってもらったばかりの鞄を手に取る。  戻ってくると、女性は扉の向こうで待っていた馬車を指し示した。 「どうぞ」  えっ、馬車に乗れるの?  一度父さんと王都の競りに行ったとき、街を走っているのを見たことがあるくらいで、接点はないと思っていた。  馬は、大きい。茶色くて、足の筋肉が盛り上がっている。  その滑らかな毛艶の鬣に、御者のもつ縄が垂れていた。  くるりと、父さんに向き直る。 「行ってきます。父さん」  やや緊張しながらそう言うと、父さんは布に包んだお弁当のスコーンを僕に手渡してくれた。  そういえば、お昼ご飯を用意し忘れてたな。父さんが渡してくれなければ、僕はお昼ご飯を食べそこねるところだった。 「ああ。がんばっておいで」  柔らかく笑ってくれる。ちょっと緊張がほぐれた。  後ろ髪をひかれながら馬車に乗り込み、窓から父さんを見る。  あ、気づいて手を振ってくれた。僕も振り返す。……うん、今日はお土産話をいっぱい持って帰ろう。 「出発しますね、ライトさん」 「はい」  返事をすると、ゆっくりと馬車が動き出した。  この馬車で今僕は、待ち焦がれていた王都国立学園に向かっている。  そう考えただけで、心臓が爆発しそうだった。
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