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 ――もし運命がわたしの味方なら、きっとうまくいくはずだ。  お姉ちゃんに異変が起こったのは、わたしがリュックに携帯をしまった直後だった。 「――ううっ!」  お姉ちゃんは突然、手にした紙のトレーを取り落とすとベンチから床に転げ落ちた。  わたしは口から泡を吹いてびくびくと痙攣しているお姉ちゃんを見下ろすと、素早くアウターと帽子を脱がせた。 「これでもう、わたしたちのことを姉妹だと思う人はいなくなるよね、お姉ちゃん(おかあさん)」  わたしはメイクで一回りほど若く見えるが、やはり年相応の老人である「母」に向かって言った。  母がわたしに「お姉ちゃん」と呼ぶことを強要し始めたのは二十年以上前、たまたますれ違った中年夫人に姉妹と間違われてからだった。  それ以来、母はなるべく間違われるよう、買い物の時はわたしに似た服装をさせ、カフェに入っては本当の姉妹のようにファッションや芸能の話をするようになった。  私が外で友達やボーイフレンドを作って遊ぼうとすると「あんたなんだか変わったね、知らない人みたいだ」と蔑むような目でわたしを睨み、友人やボーイフレンドの事を人たらしか何かのように悪しざまに罵った。  わたしはリュックからかぎ裂きのある薄いブルゾンを出して母にかけると、「お姉ちゃん(おかあさん)はずっとわたしと姉妹のようにいられると思ってたかもしれないけど、もうそういうわけにはいかないの。わたし、来年で五十になるのよ?わかる?」と言った。 「く……薬……あんたに預けた……」  母はそう言うと、わたしが預かっているはずの薬を求めもがくように手を伸ばした。 「薬?そんなもの、持ってないわ。家に置いてきたの。……それと家にある薬も全部、わたしが捨ててしまったわ」  母は日ごろ常に七、八錠ほどの薬を服用しており、その中にはアレルギーの薬もあった。 「薬……ない……」  母は骨ばった腕を伸ばし、わたしに助けを求める仕草をした。もう母とわたしを姉妹だと思う者はいないだろう。 「ごめん、これ以上いると怪しまれるからわたし、もう行くわね。やっとわたし自身の人生を始められるんだもの。わたしがわたしになるチャンスは、今しかないの」  わたしは度数のなくなったプリペイドカードと空の財布を母の傍らに置くと「さよなら、お姉ちゃん(おかあさん)」と言ってくるりと背を向けた。  ベンチを離れ歩いてゆくわたしの横を、「大変だ、ホームレスの女が倒れてる!」と叫ぶ人たちが通り過ぎていった。  突然、母から切り離され「誰でもなくなった」わたしは、誰一人わたしのことを知らない雑踏の中をやっと歩き始めた幼子のように覚束ない足取りで進んでいった。                〈了〉
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