フレンチローズ

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フレンチローズ

 初めて訪れた村。  すでに消滅してしまった村なのか、人の姿をまったく見かけない。  何軒か、道路沿いにあった古い家屋も、何年も前に家人を失ったように、寂れている。  一本、左折する道を間違ったんだな……。  僕はランドクルーザーを道路の左端に寄せて、停車した。  場所を確認しようとスマートフォンを取り出して、圏外になっていることに驚いた。今どきそんな場所があるのか。登山していても携帯電話がつながる時代だというのに。  ふうぅ。  ネガティブな気持ちは嫌な記憶を呼び起こす。 「また?本気で言ってます?」  僕より十も年下の担当編集者は、スカイツリーの天辺くらい上から目線で、僕をバカにするように言った。 「うん。本気」  僕のカメラマンとしてのスタートは、家具のカタログを作る小さな会社だった。インターネットは充分に普及していたが、まだスマートフォンがなかったせいか、紙のカタログの需要は多かった。  その頃は若さもあって、休日は日本各地の身近な風景を撮ってまわっていた。憧れのランドクルーザーをローンで買い、寝袋と水を積んで出かけた。人の心に響く写真を撮りたい。それを本にして出版したい。そう思っていた。  最初に出版した写真集はそこそこ売れた。しかしスマートフォンが発売され、写真や動画を投稿するアプリがいくつも登場し、それが日常になると、紙媒体の写真集なんて見向きもされなくなった。美しい夕焼けも、サーファーが挑む大波も、サッカーボールを追いかける高校生も、素人がスマホのカメラで撮影した写真が一瞬で拡散され、多くの人の目にとまるからだ。  家具のカタログもオンラインでの配信用に撮影はするが、世間の人達は買った人の感想と共にネットに上げられている写真や動画のほうに重きをおく。  僕は仕事にやり甲斐を見い出せなくなっていた。 「掌返しじゃん……」  僕はボソッと呟いた。子供のようなことを言ってしまった、と思った。 「掌返しっていうほど、最初の本も部数ないですけど」  編集者も同じレベルの子供っぽさで意地を張った。 「じゃあこれを最後にしますから」 「え?」 「最後にします。写真集、出したいんです。助けてください」  年下の生意気な編集者に深く頭を下げたのは、守りたいプライドのためだろうか。  バカだったのかな……。  崩壊した村と、手入れをする人がいなくなった山を見ながら、自分と重ねる。  仕方なくまた車に乗り、ゆるゆると運転し、景色を眺めながら村の中を通ってみた。  遠くに紅色なのか、濃いピンク色なのか、なにかが広がっているのが見えて、近づいた。  少し離れた場所に車を停め、徒歩で近づいて、息を飲んだ。感嘆のあまり、呼吸を忘れていたかもしれない。  それはコスモスだった。  一面に広がるコスモスの群生。  向こうに廃校になったらしい、古い木造の校舎のようなものがあるところから察するに、このコスモスの群生はグラウンドいっばいに咲いているようだ。かろうじて、群生の端に鉄棒が見えた。  コスモスといえば淡いピンク色が多いが、ここのコスモスは紅の色、というべきか。昔、勉強した色の名前を、記憶の底から細い糸で手繰りよせて……。そう、フレンチローズ。濃くて、艶っぽいピンク色。色気があって、強そうで、でも孤独で誰にも心を開かない。そんなイメージの色。  誰もいない寂しい村で、見事なまでに咲き誇り、風に揺られているフレンチローズ色のコスモス。孤独な色だと思うのは、この村のせいなのか。それとも落ちぶれた自分のせいなのか。  誰に見られることもないのに、このうえなく美しく、凛と、咲き誇る、艶やかな濃いピンク色のコスモス群。  寂しくないのかな……。せっかくこんなにきれいに咲いているのに、村には見てくれる人がいなくて。  不思議とそんな気持ちになった。  そのときだった。  コスモスを手でかき分けながら、歩いてくる女の子がいた。  コスモスは女の子の胸の辺りまでの高さがあるので、歩きづらそうだ。  女の子はグラウンドの真ん中辺りで僕に気づき、足を止めた。  不審者と思われたらどうしよう。なにか言わなきゃ。えっと……なにか。 「ねえ、このコスモスを写真に撮りたいんだけど、誰に許可を取ればいいか教えてもらえる?」  僕は大声で、取ってつけたような言い訳を口にした。  女の子は僕のほうに向かって歩き出した。一歩、また一歩。背の高いコスモスをかき分けながら。  凛としている人だな。  彼女は背筋がピンと伸びていて、なんだか張りつめた線のような印象だった。 「おじさん?お兄さん?」  僕のそばまで来て立ち止まった彼女は、思ったより背が高く、痩せていた。女の子と大人の女性のあいだのような印象だ。ショートカットなのに、前髪が頬骨の辺りまで長くて、まるで顔を隠しているように見える。その前髪からチラリと見える大きな瞳が、僕を射貫くように鋭く見つめる。  しかしそれだけではない。真っ白な彼女の肌に映える、唇の色。  フレンチローズ……。  このコスモス群の色。濃いピンク。艶っぽくて、強くて、決して媚びない、凛とした色。  スッと伸びた背筋。鋭い眼光。この女の子の色だ。 「ねえ、おじさん?お兄さん?」  彼女はまた尋ねた。 「お、お兄さん、で」  彼女のもつ雰囲気に飲み込まれていた僕は、ハッとして答えた。  彼女はフッと小さく笑うと 「写真撮って、どうするの」 と訊いた。 「写真集を出すんだ」 「花の写真?植物の図鑑?」 「いや、風景や人の」  彼女は興味なさそうに、ふうん、と呟いたきり、沈黙した。 「あの……許可取りたいんだけど。市役所とか町役場とか、行政機関、教えてもらえる?ここ、圏外で、検索できなくて。僕、道に迷ってここに来ちゃってさ」  しどろもどろに話すと、彼女は羽織っているパーカーのポケットに手を突っ込んで、 「そんなもん、この辺にないよ」 と言った。 「こんな人口の少ない村、観光もなにもなくて、とっくに県が見捨てたんだよ。選挙の広報車も来ないくらい。このコスモスの向こうに見える木造の建物、昔の小中学校で、今は町役場の支所なんだけどさ、さっき行ったら、閉まってた。パートでやってたおじいさん、持病が悪化したんだって。貼り紙があった」  交代要員もいないのか。 「きみはこの村に住んでるの?」 「いつかは出ていくよ。ここは暮らせる場所じゃないから」 「今は住んでるんだ?」 「うん。つい最近までばあちゃんの介護をしてたから。でも亡くなったんだ。だからもうここにいる理由がない」 「ご両親は?」 「とっくに亡くなったよ。この村、病院がないから。救急車呼んでも診てもらえるまでに半日以上かかっちゃう。間に合った人なんてほとんどいないよ」 「……ごめん」  彼女は苦笑して、少し首を傾げた。前髪がサラッと揺れて、彼女の両目が見えた。  なんて美しい……。  人を寄せ付けない、孤高の人。このコスモスの精霊かと錯覚するほどの美しさ。 「きみの写真を撮ってもいい?」 「……。」  彼女は急に警戒して、ニ、三歩、退いた。 「お兄さん、ヌードとかのカメラマン?」 「違います!」  彼女の発想が面白くて、思わず笑った。  彼女の凛とした強さと、そこに内包された孤独を留めておきたい。写真という形で表現したい。  カメラ欲、といえばいいのだろうか。ただただ彼女を撮りたい、という欲求が溢れて止まらない。こんな気持ち、何年ぶりだろう。 「……いいよ、別に。……撮っても」  彼女は自信なさげに、そう言った。  あれから二年ほどが経った。  フレンチローズのコスモス群の中に立つ、前髪の長いショートカットの女性の写真が表紙になった写真集は、重版にこそならなかったが、驚くほど売れた。  風で前髪がなびいて、顔があらわになった瞬間をとらえた写真は、僕のカメラマン人生で最高のものになるかもしれない。  写真集が発売されると、ネット上では一時期、彼女のことが話題になった。 「あの子、だれ?」「きれい」「女優?モデル?」   「あのぅ。すみませんでした」  十歳年下の編集者は、僕に頭を下げた。 「あなたの力を見抜くことも、信用することも、できていませんでした」  僕もそうだ。自分の力を信じていない。 「当然だよ。今回はまぐれ」  そう。ただのラッキー。  偶然道を間違って、偶然一面に広がるコスモス群を見つけて、偶然彼女に出会っただけ。  でもあの偶然がこれからの僕の人生を変えることになるとは。  あの日が特別な一日だったということを、人はあとになって知るものなんだ。  出版社をあとにして、僕は電車に乗った。  満員ではないが、ほどほどに混んでいる都心の電車。  隣に立つ、イヤフォンで音楽を聴いているらしい、高校の制服を着た男子のスマホの画面が視界の端に入った。  ん?  ミュージックビデオだろうか。一瞬、気になるなにかが映ったような……。  良くない行為だと思いつつも、男子のスマホ画面を覗き込んだ。  フレンチローズ……。  画面の中には彼女がいた。  暗い画面の中に立ち尽くしている彼女。朝陽がゆっくり上ってきて、彼女を照らし始める。  ショートカット。長い前髪。ピンと伸びた背筋。細い体、華奢な肩。  風が前髪を吹き上げると、鋭い眼光があらわになって。  大きい瞳と、フレンチローズの唇。彼女の色。  濃いピンク。艶っぽくて、強くて、誰も寄せ付けない孤高の彼女。  僕の写真集を見たどこかの芸能事務所が、彼女を見つけたのか。  あの日、僕と出会ったことで、彼女の人生も動き始めたんだ。  彼女にとっても、特別な一日になったんだ。  彼女はきっと大物になる。僕なんか近づけないくらいに。  僕はそれがとても誇らしかった。  
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