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 俺がその喫茶「柘植の木団地」を訪れたのは、開店して数週間後の事だった。あれだけ森本さんに弄られながら面談にも携わったというのに、課長の代理で頭を下げに行く仕事に追われて、結局開店準備の様子すら一度も見に行けていなかった。いつの間にかオープンしていて、なんと課長も森本さんも既にコーヒーを飲みに行ったらしい。まったく社会ってのは世知辛い。  実は少し気になっていたんだ。そんなに有名なシェフがどうしてこんな過疎の街へ来て、しかもビストロではなく喫茶店なんかをやろうと思ったのか。  面談の時の須崎さんは、正直印象に残っていない。書類の文面にある事をそのまま口にしていただけだったし、殆ど顔を上げてくれなかったので、どんな顔かもよく分からなかった。森本さん曰く「シェフ時代から、言葉で説明するより料理で判断してもらうタイプだったようです」だそうだ。  だが、今回の喫茶店のコンセプトは憩いの場だったはず。その憩いの場のマスターはコミュニケーションの鬼じゃなきゃやっていけないだろう。須崎さんがどんな風に店を切り盛りしているのかちょっと見てやろうという思いもあった。俺はあえて休日の混み合いそうな時間帯に喫茶「柘植の木団地」へと足を運んだ。  カランカランカラン、ドアを開けると来店を知らせるベルが鳴る。だがスタッフらしき人は一向にやって来ない。俺はその場で店内を眺め渡した。 「マスター、ブレンド二つ追加ね。恒子さん、これ窓際のテーブルに運んであげて」 「俺そろそろ病院だから行くわ。マスターご馳走さん。お代は籠に入れておくよ」 「サ店で待ち合わせだって言ったのに。松木さん、来ないわね。忘れちゃったのかしら」 「この間もお弁当屋さんに買ったお弁当忘れてっちゃったんだって松木さん」 「私も他人事じゃないわ」 「あれ、そう言えば卵サンドって頼んだかしら」 「やあね、もう。頼んだわよ、コーヒーと一緒に」  店内は団地の住人で賑わっているようで良かった。だが肝心の須崎さんの姿が見えない。マスター、と声が掛かっているので、仕事放棄ではなさそうだが。 「あら、見ない顔ね。サ店に来るのは初めてかしら?」  一人の女性が俺に近づいてきた。お水とおしぼりはセルフよ、カウンターにあるわ。メニューは黒板に書いてあるこれだけ。今日の日替わりコーヒーはブラジルのやつよ、えっとなんて言ったかしら。 「サントスです」  カウンター奥の厨房から、卵サンドの載った皿を片手に須崎さんらしき人がのっそりと現れた。銀色のトレイに卵サンドとコーヒーを置き、お待たせしましたと手際良く並べて、さっさと厨房へ立ち去って行く。立ち去って行く!? マスターってそういうものだっけ?
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