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 客とろくに会話もせず立ち去っていくマスターの姿に俺が思わず目を離せないでいると、声を掛けてきた女性が「マスターはいつもこうなのよ」とよく知ったような口ぶりで笑った。卵サンドを前にした女性客も、そうそうと相槌を打つ。 「サ店が出来てもうすぐひと月になるけど、マスターが愛想良く喋っているところなんて見た事ないわ」 「そう、なんですか」  その女性に勧められるままカウンター席に座り、別の女性から水とおしぼりを受け取り、競馬新聞を読んでいた男性に「初めてならブレンドにしときな」と言われ、いつの間にか俺は団地の住人たちに世話を焼かれていた。  それにしても、この喫茶店はひと月足らずでもう常連客ができるほど団地に馴染んでいるのか。あんなに不愛想なマスターだと言うのに、サ店と呼ばれて気に入られているなんて、一体どんな手を使ったんだろう。やっぱり軽食だけじゃなく、元シェフの腕前を生かして凝った料理でも出しているんじゃないか。 「ずっとこういう場所が欲しかったのよ。でも喫茶柘植の木団地なんて呼び方長いでしょ? だから私たちの間ではサ店。出てくるのは正真正銘コーヒーとサンドイッチかバタートースト。でもそれで十分なの」 「そうなんですか」 「マスターの無口っぷりに最初は戸惑ったけどな。蓋を開けてみればコーヒーは本当に美味いし、好みも全部分かってくれるし、言うことないよ」 「なるほど」  俺の穿った見方はハズレた。意外にも団地の人たちの憩いの場として機能しているようだ。まあ受け入れられているのなら柘植の木団地チャレンジプロジェクトは成功した、という事だ。再生課としても、成功事例が増えれば融資や協力を仰ぎやすくなる。  再開発のサではなくサ店のサに奔走する事への不満はあるが、小さな成功の積み重ねがいずれは大きな仕事を呼び込む。そこに上手く乗っかる事ができれば、俺が再開発担当になるのも時間の問題だろう。 「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」  カウンターの向こうから、すっと真っ白なカップが差し出された。黒に近いこげ茶色の液体。味も香りも気に留める事なく、俺はそれを無造作に飲み干した。  数日後、再び俺はサ店を訪れた。今度はただのサボりだ。毎日書類と格闘したり、少数だが未だにいる団地再生反対の住民から文句を言われたり、予算使いすぎと財政課から睨まれたりして、すっかり気分がクサクサしていた。ったく、こんな事やるために出向したんじゃないんだ俺は。  ボールペンをカチャカチャと力任せにノックしながら思い出したのが、この店の事だった。一度様子を見に行って野次馬気分は晴れた筈なのに、また行きたい気持ちが湧き上がる。俺は外出と書かれたマグネットをホワイトボードにぺたりと貼り付けた。  先日の賑わいから打って変わって、コーヒー一杯で暇つぶしをしている客が一人だけの、のんびりした空気が流れる店内。須崎さんは熱心にサイフォンの手入れをしていた。俺の鳴らすドアベルの音で顔を上げると、「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」とお決まりのフレーズを口にした。この分だと俺の事なんて覚えていないな。 「自分、柘植の木団地再生課の大川と言います」  自ら名乗り出たところで、須崎さんはようやく驚いたような表情を見せた。 「ああ失礼しました。確か面談の時にお世話になりましたね。今日もブレンドにされますか」  へぇびっくりだ。覚えてたんだ。俺は心の中で小さく唸った。不愛想、言葉足らずという印象しかなかったから、なんだか意外だ。 「あ、いえ。今日はマスターのお勧めを」 「僕の、ですか。特にはないですが、今日の日替わりコーヒーはインドネシアのマンデリンです」 「じゃあそれを」 「かしこまりました」  なるほど、自分の好みを押し付けないあたりも年配者には好感度が高いかもしれない。須崎さんは手際良く準備を始めた。  二台あるヒーターのうち、一台にフラスコをセットする。中のお湯がボコボコと沸騰してきたようだ。別の容器にコーヒーの粉を入れ、それをフラスコに差し込んだ。なるほど、ここに沸騰したお湯が上昇してくるわけだ。なんだか理科の実験みたいで楽しい。須崎さんは竹ベラでお湯と混ざり始めたコーヒーの粉をゆっくりとかき混ぜる。流れるような動作は見ていて飽きない。  調理台のどこかから砂時計が現れ、カウンターの上にポンと置かれた。すべての砂が落ちると、須崎さんはもう一度お湯に浸ったコーヒーを丁寧な手つきで混ぜた。俺にその意味はさっぱり分からないが、きっと仕上げの何かなんだろう。  いつの間にか俺は須崎さんの手元を凝視していた。 「コーヒーがお好きですか」 「あ、え、いやすみません。なんだか面白くて」 「興味を持ってもらえて嬉しいです」  カウンター越しに須崎さんと言葉を交わす。言葉数は少ないが近寄り難いという訳でもない。無愛想とも違った。シェフを辞めて喫茶店のマスターに転身した理由が見えてこない。  一人いた客が金を置いて店を出て行った。と、少ししてからドアが再びゆっくりと開いた。須崎さんはそちらにちらりと視線を遣ると、出来上がった俺のコーヒーを急いでカップに注ぐ。
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