序章

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序章

 ―文久三年 十月―  茜に染まる空の下を、一人の女が歩いていた。目を覆う程、長く伸ばされた前髪。結うこともなく、垂らされたままの黒く艶のある髪は、腰に届こうとしている。そんな髪に対照的な白い肌は、煤で汚れ、着物は何度も紡ぎ直された跡があり、左右の丈も長さが違っており、右膝が顔を覗かせていた。貧富の差が歴然としていたこの江戸時代、そのような格好の者はどこにでもいた。だが、彼女が唯一、他と違っていたのは、左腰に刀を差していたことだ。  この刀を差した、妙な女の名は鈴に音と書き、すずねという。  彼女は、先刻から川辺を歩いているが、特に当てがあるという訳でもない。ただ、理由もなく、ひたすら歩いているだけだ。  鈴音は、ふと足を止める。冷たい風が、京の町に吹いた。この町に、冬を告げにやって来たのだ。すぅっと吹き抜けていく冬の使者達が、川辺の雑草をさわさわと躍らせている。その音色が、鈴音の瞼を自然と閉ざしていく。 真っ黒に包まれているようで、どことなく明るさのようなものがちらつく闇の世界に、少しずつ眩い光が差し込み、懐かしく温かい思い出の場所が、視界いっぱいに広がる。  (ここを最後に見たのは、いつだったっけ)  彼女が、この景色を最後に目にしたのは、もう随分と昔のことである。思い出そうとすれば、気が遠くなるほど前のことだ。  鈴音は不思議だった。その景色を鮮明に思い出せたことが。彼女は、長い年月を、移ろう時代とともに生きてきた。その沢山の日々は、鈴音の温かな思い出の上に、無情にも層を重ねていく。人間の記憶など、新しいものに塗り潰されて消えてしまうか、断片的にしか思い出せなくなってしまうかである。  例えば、それこそ今日、道ですれ違いざまに会釈を交わした人間の顔形、姿なんかを、鮮明に思い出せないことと同じようにだ。  どう抗ったって、思い出や記憶とういものは、薄れてしまうものだと、鈴音はそう思っていた。それなのに、彼女の中の、温かで愛おしいと思える日々達は、一瞬の欠片も失くすことなく残っている。当時、抱いた小さな感情も、何一つ欠けることなく、蘇らせることができる。蒼く高い空に、風に流され少しずつ形を変えていく白い雲、果てなく続いているかのように見える草原に、そこを駆け抜けていく風。  そして、鈴音を家路へと諭してくれる穏やかな、陽だまりを感じさせる優しい声。  彼女は、慌てて振り返ろうとした。その声が、遠くで聞こえたような気がしたからだ。  しかし、鈴音は少し首を傾けはしたが、振り返ることはしなかった。彼女は、知っていたからだ。振り返った先に見えるものは、愛おしい誰かでも、懐かしい場所でもなく、ただの現実だけだと。  だから、彼女は振り返らなかった。否、振り返りたくなかったのだ。  鈴音は、溢れだしそうな想いに、蓋をするため、追懐を断ち、重い瞼を開く。前髪が、目元を覆っているため、表情は、はっきりとは分からないが、ただ、隠されることなく見える口元は、愁いを帯びている。  重くなった足を前に進め、彼女は再び動き始めた。もう一度、歩き出すために。こうして、歩くことに終わりはない。  人間とは、誰もが道を歩いている。それを、人生、一生と呼ぶのだろう。その道には、必ず、終焉の地が存在する。それは死、すなわち、命が鼓動を刻まなくなる日がくるということだ。  けれど、彼女には、その“終わり”がない。正確に表現すると、初めから無かった訳ではなく、途中で奪われたのであるが、泣く泣く、または、嫌々そうなったのではない。  鈴音が、自ら差し出したのだ。大切なものを護るために、犯した罪の代償として。だから、彼女には終わりがない。終わりを失ったのだ。
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