序幕

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序幕

「――また見れるとは、思わんかったな」  嗄れた男の声は、小さな庭に零れて消える。そんな言葉を零した主はゆっくりとした動作で、この庭に植えられた草木がよく見える位置に置かれた長椅子へと向かうのだ。  片足を引き摺るようにして歩く男が足を取られないよう綺麗に馴らされた地面を、杖を使いながらも進んでいった男は長椅子に腰を下ろし深く息を吐きだして。  小さな庭を少し歩くだけで疲れ果てたかのようにそのまま椅子の上で体を横にした男の名は(タオ)恒星(フェンシン)――かつてこの国の軍を統べていた男であった。  六尺を超える長身に幼い頃から軍の中で揉まれた俊敏さとどこか粗野でありながらも実直な所がある性格で兵を束ね、将軍として戦場を駆けた男が片足を負傷しその職を辞した頃に住み始めたのは、都の端にひっそりと建てられたこの家であった。  決して華美な家ではなかったが元来辺境にあった――今はもう荒野になっているのだろう――村で産まれた桃にとっては、充分に住み良い住処であった。  桃と共に暮らす男は、どう思っているか知らないが。そんな事をぼんやりと考えながら、桃は視界の端で揺れる芍薬を見つめていた。  小さいながらも幾つもの草木を植えたその庭には、どの季節でも花が咲くようにと計算されている。冬は蝋梅、初春は梅に山茶(つばき)、春であれば黄寿丹と桃。そしてこの時期に咲き乱れるのが芍薬だった。  そして桃は芍薬が美しく揺れるこの庭で、生命の刻限を伝えられていた。 「芍薬は、見納めかもしれんな」  今は桃が横たわる長椅子で、桃が幼い頃からその姿形を変える事がなかった治癒を司る仙女はそれだけを口にした。 「そうか」  馬鹿だ阿呆だと数え切れぬ程言われていた桃だったがその言葉の意味を履き違える程に愚鈍ではなく、静かにそれだけを答えて小さく息を吐く。そんな気はしていたとは、口に出さずに。  ――それが丁度一年程前で。  老いが自身の生命を陰らせていく感覚に蝕まれながらも、よく二度目の見納めを迎えられたと、桃はかつての自身からは想像もできないような力無い笑みを零していた。  初夏の空は青く高く、心地よく桃の頬を撫でる風は芍薬をそっと揺らしていて。抜けるように蒼い空と同じ色の瞳を細めた桃は、ゆっくりとその身を起こす。 「――緋臣(フェイチェン)」  桃の一つ一つの動作によって体力を奪われているような緩慢な動きに、形の良い眉をひそめたのは、家から出てきた矍鑠とした老人で。桃から緋臣と呼ばれた男の名は、(ヤン)緋臣(フェイチェン)。桃がこの国の軍を統べていた頃、楊はこの国の政を取り仕切っていた。  幼い頃に桃を迷い犬を拾うかの如く拾い上げた養父から、馬鹿と阿呆と無教養を――兎に角付け入る隙を与えるような余計な事は極力言うなと再三言い含められ無骨で口数が少ない男に育った桃が、言葉を尽くす唯一といってもいい相手が楊だった。 「部屋で大人しくしてる事も出来ないのか」  この歳になれば誤差にも等しいが、幾つか年下であった筈の楊から叱るような口調で言葉を返された桃は、喉だけで笑う。初めてこの男と言葉を交わしてから幾星霜を経ても、彼が紡ぐ言葉は変わらない。  あまりにも楊から叱られ続けていた桃は、すっかりそれに慣れてしまい笑ってしまう始末で。小さく笑う桃の姿に、楊は眉を上げてどっかりと桃が身体を起こした事で空いた長椅子に腰をおろす。  桃よりも少しだけ低い――それでも世間から見れば長身の部類に入るであろう楊の肩に凭れた桃に「重い」と不機嫌そうに告げた楊へ「少しくらい多目に見てくれや」とだけ返せば、深いため息が返される。  かつてはきっちりと冠服(グァンフー)を纏っていた楊が纏うのは直裾袍(ヂージュパオ)で。それでも自身が好む馬掛(マーグァ)よりはまともな装いだろう。裾が長い服は桃にとってどうにも動きにくく、どうしても避けられない式典で着る事はあったとしても普段は自身の出身地であった北方の衣服を好んで着ていた。  この男に叱られる事ができるのも、あとどれだけなんだろうな。  ふと過ったその疑問を口から出そうとしてすんでの所で飲み込んだ桃は、全く違う言葉を口から出した。 「いやしかし、長生き出来たと思わないか?」  どこか満足げにそう口にした桃の言葉に、楊はジロリと視線を向ける。「言うに事欠いて、それを言うか?」苛立たしげな返答に、桃は言葉を間違えたかと思いはしたが他に楊を宥められるような言葉を見つける事は出来ずに言葉を重ねる。 「お前には悪いけどな、緋臣。俺はお前に送られて逝ける事が嬉しいんだ」  戦場で塵となるものだと思っていた自身の生命が、ここまで繋がれたのはきっと楊が居たからだと桃は確信しながら言葉を紡いだ。何度も血を流し死の淵を渡り、多くの仲間を――守るべき人々を喪ってきた。それに報いるように戦場を駆け続けたのが桃恒星という男であった。  そして、桃が血を流し死の淵を渡る度に、心配し叱り続けたのが楊緋臣という男であったのだ。  楊が居なければ、とうに死んでいた。それ程までに桃は自身が生きて帰る事に対して無頓着であった。そして楊が先に逝ってしまうような事があれば、きっと自分は生き続ける事などできやしないだろう。人生の半ばを過ぎた頃に出会った男は、桃にとって人生の唯一になっていた。  押し黙ったままの楊に、桃は遺言を伝えるかのように言葉を紡ぐ。今日を生き抜いたとして、明日も生きている保障などどこにもないのだから。 「もしも、来世というモノがあれば――今度は争いの無い世でお前に逢いたいモンだな」  それは桃にとって祈りにも似た言葉で。桃は――きっと楊も、輪廻など信じてはいない。それでも、また出逢いたいと桃は口にする。  今度は争いの無い世で、穏やかにこの男と暮らせるとしたらどんなに幸せだろうと。桃にとってこの世は、あまりにも喪うものが多すぎた。それでも不幸であったとは決して思わないが――喪ったものが多すぎて、こうして生命の刻限が迫った今になっても楊へと告げることが出来なかった言葉が一つだけある。  我愛你(あいしている)。  何も喪わずに済む平安な世で、穏やかに出会えたら口に出来たかもしれないその言葉。ただ三文字のその言葉すら口にできない無骨者の思い付きみたいな言葉に、楊は鼻で笑う。 「平安な世で? そんな世なら、私はお前と出逢ってすらいないだろう」  即座に返された楊の言葉に、桃は「違いない」と口にする。元々楊と自身の生きる世界は違っていた事など、桃にも理解はできていた。  平安な世であれば、そもそも北方の辺境に産まれた桃は都に足を踏み入れる事すらなく人生を終えただろう。故郷を喪わず、桃という姓を得る事もなく、ただの恒星として辺境の地で生きそして死んでいく筈だった人生を変えたのは他でもない戦乱の世であったのだから。  声を上げて笑おうとしてそれに失敗した桃は、喉で小さく笑い疲れ切った身体を楊に預けながら「それでも」と口にする。  ――それでも、俺はお前を見つけると思うぞ?  その言葉の全てを口にする事が出来ないままに、桃はその晴れ渡った空と同じ色の瞳を瞼の下へと隠していった。
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