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   貧乏暇なし。振り返れば、佐倉はその言葉を体現した人生を歩んできた。  中学校に入学した頃、父親が鬱と過労に倒れ休職。半年後、なんとか復帰しようとした矢先に次は会社が倒産。再就職しようにも体調と精神の両面から見て難しく、代わりに母親がパート勤めを始めた。四つ下に弟、そしてその二つ下に妹がいるが、家計を支えるのには戦力外であった事もあり、長男である佐倉が母の仕事を影ながら手伝い、少しでも足しになればと奮闘した。  高校にはなんとか通わせてもらえた。学校は好きだった。友人にも恵まれ、勉強も嫌いではなかった。というよりは授業には貪欲に没頭していた。塾など通えるはずもなく、学ぶ機会はそこにしかなかった。率先して学級活動に取り組み、文化祭や体育祭の実行委員などを自ら手を挙げ、歴任した。時間的制約がある佐倉には厳しい面もあったけれど、放課後に作業できない分は、深夜、人が寝静まる時間にその埋め合わせをする事でまわりに迷惑をかけないように努め、周囲からの理解や協力を得る事ができた。  そして、それ以外の時間は全て労働に当てた。飲食店でのバイトを主とし、朝の新聞配達から空いたシフトの穴埋めに従事した短期のバイトまで、様々な仕事を次々とこなした。同じ十代の友人たちが青春を謳歌する中で、佐倉のそれはただひたすらに労働の日々だった。生活費から、これから必要になるだろう兄弟たちの学費まで全て自分が賄うつもりで働いた。それが苦だとは思わなかった。気弱だけれど優しい父も、いつも快活で明るい母も、お調子者の弟も、妙にリアリストに育ってしまった妹も、みんな大好きだった。制限があるからこそ、自由がきかないからこそ、限られた時間を尊く思う事ができ、なんでも精一杯に楽しむ事ができるのだと佐倉は思っていたし、家族を愛してもいたから全く辛いとは感じず、毎日を笑って過ごす事ができた。  大きな地震でもきたらひとたまりもないな、と思っている古いアパートの二階の角部屋、そこが佐倉の部屋だ。大学から自転車で二十分の距離、狭く窮屈なユニットバス付き、日当たりは悪いが家賃は安い、擦り切れた畳に必要最低限の家具、部屋を見渡せば一分もかからず「なるほど」と知り尽くせる佇まい、そんな部屋だ。  これまた古い卓袱台の上に集めてきた無料の求人誌を広げ、それらを隅から隅まで熱心に眺めていると、携帯が着信を告げた。ディスプレイには実家の電話番号が表示されている。 「もしもし?」 『あ・・・、もしもし、お兄ちゃん? 私、理恵子』  おそらく母からだろうと思っていた佐倉は正月に帰省した時ぶりに聞く妹の声に瞬間返答が遅れた。 「・・・久しぶり。元気か?」 『うん、私はね。お兄ちゃんは? 元気?』 「あぁ、まぁな。・・・それよりどうした? 珍しいな、理恵子から電話なんて」 『あぁ・・・、うん、まぁ・・・』  どちらかと言うといつもはっきりした物言いをする妹の妙な歯切れの悪さに、佐倉は少しだけ身構えて返答を待った。 『実はね、お兄ちゃんには黙ってろって言われてたんだけど、先月、お母さんが体調崩して倒れちゃって・・・』 「倒れた?」  驚きのあまり声が上擦った。前のめった身体を支えようとして咄嗟に卓袱台に手を着く。 『違うの! いや、違わないんだけど・・・、そんな深刻な状況じゃなくて、どうも疲れがたまってて・・・、過労ってやつ? らしいんだけど』  言い訳をするみたいに慌てて喋る理恵子に、佐倉まで落ち着きをなくす。掌に汗が滲み、求人誌に薄く染みた。 『だけど今は元気なの。元気なんだけど、どうも無理してるっていうか、そう見せてるだけっていうか、うまく言えないんだけど・・・、いつもより無駄に張り切ってる姿見てたら、なんか私、余計に心配になっちゃって・・・』  母の姿が浮かぶ。家族に心配をかけまいと、仕事先に迷惑をかけまいと、必要以上に気丈に振る舞い、笑ってみせる母の顔が。 『それでね、お兄ちゃん・・・、私、少しだけお母さんを休ませてあげたくって・・・、休んでた分取り返そうとして、また仕事増やそうとしてるみたいなの。私はまだ代わりに働く事もできないし、どうしたらいいのかわからなくて、それで・・・』 「わかった」  か細く、それでも必死に言葉を紡ぐ妹を遮って佐倉は声をかけた。 「わかったから、理恵子はもう心配すんな。兄ちゃんが何とかするから」 『本当?』  安堵が通話口を通して伝わってくる。こういう時、無理にでも平静を装ってみせる癖は母親譲りだなと佐倉は思う。 「ああ。毎月送ってるお金、今月は工面してなんとか多めに出してみる」 『ありがとう、お兄ちゃん』 中学生らしい幼い声が佐倉を一心に頼っている。それを裏切るわけにはいかない。 「じゃあ電話切るぞ。またな」 『あっ、お兄ちゃん待って。お母さんには私が言った事内緒にしておいてね。お母さんの性格わかってるでしょ? 私が心配してる事知ったらさ・・・』 「わかってるって。それも込みで心配すんな」  もう一度「じゃあな」と短く告げてから佐倉は通話を終えた。そして大きく息を吐くと、そのまま前に倒れ込み、頭を卓袱台に打ち付けた。  やはり進学などせずに働くべきだったのかと、再三悩んで答えを出したはずの後悔がまた頭に浮かぶ。奨学金を使い、仕送りは一切もらっていないとは言っても、二年前の入学時にはそれなりの援助を両親から受けた。高校時代に稼いだ金は全て家族のためと思っていたけれど、高三の冬に母親から手渡された通帳には佐倉の進学費用としていくらかまとまった金がきちんと貯められていた。  中学生である妹はまだ働けないし、野球をしている弟は特待生として高校に進学し、授業料免除などの好待遇で迎えられてはいるけれど、如何せん家にいない。父は調子の良い日は至って健康な中年男性だが、鬱がぶり返した時などは目も当てられない程ひどい有様になる。そう考えると、やはり自分の夢など早々に諦めて、一家の大黒柱と成るべく、就職の道を選ぶべきだったのではないか。いっそ今からでも休学して、しばらくの間働いてみるか、いや、でもそんな中途半端はかえって誰のためにもならない、だけど―――。  まとまらない考えを振り切るように佐倉は顔を勢いよく上げた。そして中断していたバイト探しを再開する。表から裏から隅から隅まで、血眼になって高時給の仕事を探す。今月の生活費を賄い、実家に充分な送金ができるだけの条件を満たす仕事を。  五分経ち、十分が経過する。しかしどれだけ探しても、そんな条件を満たす仕事など、どこにも掲載されていない事は初めからわかりきっていた。
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