1話

1/1
36人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ

1話

「丸太先生の原稿頂いてきました」  時は昭和の後期。伊藤出版文芸編集部に、身長約二メートルの志朗が頭を打たないように首を傾げて入って来た。真っ黒い短髪とスーツの上からでもわかる隆起した筋肉に、初対面でも彼がスポーツをしていたことを疑う人はいない。  志朗が鞄から分厚い茶封筒を取り出すと、前担当の青田が驚く。 「うそ!あの遅筆の先生が?締め切り明日だよ。俺が担当してた時よか早いじゃん」 「先生いつも締め切り前になると手が止まるので、先日ファンレターお持ちしたんです。応援してくれる人の言葉があると安心して書けるようですね。読ませて頂きましたが今月もとても良かったです」  副編集長の黒木が、ほうと感心する。 「青田より丸太先生のこと把握してるんじゃないか」 「いえ自分はまだまだ、青田先輩の引き継ぎがあったからです。その時お好きだと聞いたので、文鳥庵の桜餅買って行ったら喜んで下さいました」 「お、おう」  黒木に文句を言おうと立ち上がった青田だが、流れるように褒められて、まんざらでもない様子で腰を落とした。お菓子に詳しいぶん太りぎみで、座ると椅子が大きく鳴る。  上原志朗は二十四歳、新卒で伊藤出版に入社して丸二年だ。大学時代はバレーボールで全日本の強化選手にも選ばれていた。 「体育会系から文芸なんて畑違いじゃん。怪我したとかじゃないんだよな、バレーに未練ないの?」  自分のデスクに座ると隣の青田から聞かれる。 「小学生からずっとやってたので、やりきったって感じですね。就職活動を始めようと思った時に、たまたま雑誌の取材受けたんです。とりとめのない自分の話を真剣に聞いてくれて、言いたかったことを文章にしてもらって。それで俺も本作りに興味を持ちました」 「あー、そういや入社した時に聞いたっけ。でも取材受けるくらいの有名選手ならもっと大手でも行けたんじゃ……」 「悪かったねえー、弱小出版社で」  開け放したドアから女性の声が響いた。 「あ、お帰りなさい編集長。言ってませんよー、空耳でーす」  腕組みをして入り口に立っているのは社長兼編集長の伊藤だ。祖父の出版社を三十半ばで継ぎ、もう十年近くなる。一時期は自社ビルを大きくするほどの勢いがあったが、現在はやや衰退ぎみだ。 「入社三年目、そろそろ大きな仕事がしたい頃か?」  黒木の言葉に頷き、志朗は席についた伊藤のデスク前に立った。 「実は黄之川先生の件なんですが……」 「ひょっとして直鳥賞新人賞とった?うわ、こいつにそんな大事なこと任せて大丈夫っすか?」 「お前よりはな」  黒木に言われた青田が頬を膨らませて抗議する。  受賞した黄之川卓二が処女作を自費出版と言うこともあり、次にどこで書くかは完全にフリーの状態だ。志朗は編集長の許可をもらい、ぜひ次回作をうちでとアプローチしている。 「今はオファーで一杯だろうから、いっそ上原にさせたら面白いかなと。身長にインパクトあるから顔は覚えてもらえるだろうしね」  次々回のことを考えてのことと誰もが思ったが……。 「先ほど、先生から直接お返事頂きまして」 「え!まさか書いてもらえんの?」  志朗の言葉に青田が目を丸くする。 「ええと、まあ……うちだけに条件を出されたんです。画家の石橋出逢先生に本の表紙の絵を描いてもらえたらって」 「石橋……であい?変わった名前。本名?」 「確か二十歳そこそこで美科展の最優秀受賞した男性だな。十年くらい前だから今は三十前後か」  趣味は画廊と寺院巡りの黒木の言葉に志朗が頷く。 「あまり表に出ない方らしく、画家名鑑にも載ってなくて」 「せっかくのチャンスに雲を掴むような話だよな。せめて最寄り駅でもわかったら待ち伏せするとか出来たのにー」  粗忽すぎる青田の発言に、黒木がやれやれという顔をする。 「待ち伏せって、顔がわからないんだぜ」 「あ、そっかー」  そこでやっと伊藤が口を開いた。 「頑張り屋の上原に、石橋先生の最寄り港なら教えてあげるよ」 「港?編集長は先生をご存知なんですか?だったら直接……」  伊藤は静かに首を左右に振る。 「私じゃだめだ。でも上原なら出来るかもね。ま、彼の苦手なタイプかもしれないけど。ミスターポジティブ」 「え?それ……俺のことですか?」  きょとんとする志朗にそこにいる皆がニヤリとする。 「俺らはこいつのことラッキーマンって言ってます。黄之川先生がうちだけに言ってくれたってのも、すげーラッキーだし」  作家の無理も印刷所や書店との交渉事も、誠実な人柄もあるのだろうが彼が動くと驚くほど順調に進む。 「ふふ、なるほどね。まあそのラッキーで石橋先生落としてみな」  意味ありげに伊藤が微笑んだ。 「はい!頑張ります!」 「良い返事。さすがミスターポジティブだね」  桜満開の四月。志朗は本州から連絡船で四国に渡り、さらに電車を乗り継いで島に向かうフェリーに乗り込んだ。  伊藤に教えられたのは、島民わずか三十人ほどの瀬戸内の小さな島。それが自分の運命を大きく変える、まさしく「出逢い」が待つとも知らずに…………。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!