19 ある女性訪問者

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19 ある女性訪問者

 ある日の午後、一人の女性が事務所を訪れた。  しゅうがインターホン越しに用件を尋ねると、その女性は提訴の依頼に来たとのことだった。  しゅうは美沙先生に来客の件を伝え、女性を応接ソファーに通した。  神経質そうに見える細身の女性は、多少早口気味に依頼内容を説明し始めた。  しゅうは自席に戻り、何気なく美沙先生と女性のやり取りに耳を傾けていた。  依頼人の女性は、どうやら労災保険の補償請求をしたが不支給の決定を受けたため、勤務先に対して損害賠償の請求をしたいとの依頼のようだった。 「……それで、労働災害の内容は具体的にどのような内容ですか?」  美沙先生はメモを取りながら質問した。 「朝、通勤している途中で目撃したことが、何ていうか、それがトラウマになってしまって、気持ちが凄く不安定になって仕事が出来なくなったんです。」  依頼人の女性は、その目撃したことを思い出したのか、全身を小刻みに震わせながら言葉を絞り出した。 「思い出すのはお辛いでしょうが、何を目撃したのですか?」  美沙先生は優しく言葉をかけた。 「1年位前なんですけど、私、駅で電車を待っていたんです。」 「通勤の時ですか?」 「はい、朝です。いつもの時間の電車を待っていたら、飛込み自殺があったんです。」 「自殺ですか。」 「そうです……多分。乗る人の列に並んでいる時にホームの先の方を見ていたら、突然男の人が……」 「飛び込んだ?」 「……はい。ニュースではそう言ってました。」 「あなたはその場に居合わせたんですよね。」  美沙先生は、依頼人の女性の自信無さ気な態度を見て、優しく尋ねた。 「そうです。そうなんですけど……」 「……けど?」 「飛び込んだんじゃないかもしれないと思って。突き落とされたんじゃないかって。そう考えると、すごく怖くなって。頭からそのことが離れなくなって……」  女性の表情には悲愴感が滲んでいる。  お茶を出す用意をしていたしゅうは、その手を止めて、無意識のうちに身を乗り出して二人の会話に聞き入っていた。 「いつも通勤で利用している駅でのことですか?」  美沙先生は女性の目を見つめて質問した。 「はい、国分寺の駅です。」 「あっ!」  しゅうは思わず声を上げた。  女性は少しビクッとして、しゅうを見つめた。  しゅうは、父親の最期を目撃した女性を目の当たりにして、自分と同じ時間 と空間を共有したことの驚きと不思議な親近感のようなものを感じた。 「去年の7月ですか?」  女性と目が合ったしゅうは、反射的に口を開いた。 「……はい。」  その女性は、若い事務員が自分の体験を言い当てたことに狼狽した。 「ごめんなさい。多分、私もその時、向かいのホームにいたと思うんです。」  しゅうは、それを察して、女性の不安を取り除くために事の次第を説明した。ただ、電車に轢かれた男性が自分の父親であったことは言わなかった。というより、言いたくなかった。  美沙先生はじっとしたまま、表情を変えずに成り行きを見守っていた。 「……それで、どうして突き落とされたと思ったんですか?」  しゅうは一番聞きたいことを質問した。 「はい。あの朝、少し寝不足気味だったんです。それで電車を待っている時、ボーっと私の前の方に並んでいる人を何となく眺めていたんです。」  しゅうは頷きながら、女性の話に真剣に耳を傾けていた。 「そうしたら、私が並んでいるところから少し離れたところを歩いていた男の人が、あっ、その人は結構ホームの端の方を歩いていたと思うんですけど、その男の人に近づいてきた人がいたんです。」  女性は自分の記憶をなぞるように説明した。記憶が鮮明になったせいか、両膝に置いた手指が微かに震えていた。 「どんな人ですか?」  女性の言葉に自分の脳裏に焼き付いている光景を重ね合わせて聞いていたしゅうは、その先を促した。 「近づいてきた人ですか?三十代くらいの男です。背格好は中肉中背でした。多分……」 「その男が近づいてきて、どうしたんですか?」  しゅうは、自分が詰問調になっていることに気付いて、心の中で反省した。 「並んでいる人の陰になって、はっきり見えたわけじゃないけど、近づいてきた男がホームの端を歩いていた人の背中を手で押したんです。そこに電車が来て……」  女性は、その時の光景をかき消そうとでもするかのように、頭を左右に振った。  しゅうは、自分の考えが単なる思い込みから確信に変わったことで、奇妙な安堵感に包まれた。  やっぱり、パパは突き落とされたんだ……。私の見間違いじゃない……。心のわだかまりが解き放たれて、身体が軽くなった気がした。  しゅうは、ふと、美沙先生に視線を移した。  美沙先生は、いつもの優しい眼差しでしゅうを見ていたが、表情が硬いようにしゅうは感じた。  何故だろう……美沙先生の真意を探そうとしていたが、美沙先生は手のひらを上に向けて、話の先を促した。  しゅうは質問を再開した。 「その男、ホームを歩いていた人を突き落としたその男ですけど、その後はどうしたんですか?」 「はい……」  女性はその時の光景を思い出そうとして目を閉じた。 「多分……その場から立ち去ったんじゃないかと思います。」 「思うというのは、はっきりとは目撃していないという意味でしょうか?」  美沙先生が確認した。 「はい。すぐに人だかりが出来て、私の方からはよく見えませんでした。」 「でも、その男がホームを歩いていた人を突き落としたのは、はっきりと目撃したのですね?」  美沙先生の質問は続く。 「そうですっ!さっきもそう言ったじゃないですか!」  女性は少し苛立ち、語気を強めた。 「分かりました。」  美沙先生はゆっくり頷いた。 「……では、事実関係などはお聞きしたので、提訴するに当たって、証拠として必要な書類がありますから用意してください。」  一通りの聴き取りのあと、美沙先生はやや事務的な口調で依頼人の女性に説明していた。  しゅうは、自席に戻り、女性の話した内容を反芻していた。そうすると、心の中に疑問の芽がむくむくと育ち始めた。  犯人は、今、どうしているの?  何処にいるんだろう? 「では、後程、こちらから連絡いたします。」  気が付くと、美沙先生が女性を送り出すところだった。  しゅうは、慌てて玄関へ駆け出した。自分と同じ体験をして、自分と同じように心を病んでいるその女性に対して、ある種、勝手に連帯感を感じていた。 「下まで送りますね。」  しゅうは事務所を出ると女性を先導して階段を下り始めた。  女性もしゅうに続いて階段を下りた。  すると、古市がモップとバケツを両手に下げて、階段を上がってきた。  どこか掃除でもするのか、膝のあたりが少し擦り切れて、くたびれている水色のつなぎを着ていた。 「お掃除ですか?」  しゅうは階段の踊り場で立ち止まり、古市に声を掛けた。 「あっ、しゅうちゃん。上の階の人が廊下に廃油をこぼしたらしいので……」  古市は少し大袈裟に肩をすぼめて見せた。 「大変ですね。お疲れ様です。」  しゅうはペコッと頭を下げておどけた。    再び階段を下り始めたしゅうは、依頼人の女性がついて来ていないことに気付いた。後ろを振り返ると、依頼人の女性は、踊り場の壁に寄り掛かり、しゃがみ込んでいる。 「大丈夫ですか?」  しゅうは踊り場に駆け上がった。  見ると、女性は小刻みに身体を震わせていた。力が入らないようだ。 「……」  女性は何かを言おうとして口を開いたが、息が漏れるだけで言葉が出てこない。見開いた目には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。 「どうしたんですか?どこか具合が悪いんですか?」  女性がどうしてしまったのか、しゅうには訳が分からなかった。 「あ……あの人……」  女性は、ようやく喉の奥から声を絞り出して、弱々しく階段の上の方を指差した。  しゅうは、その女性が指した方向に視線を向けた。  ……そこには誰もいなかった。  ただ、階上の奥に消えた古市のかすかな足音だけが聞こえていた。  何?  古市さんのこと?  知り合い?  しゅうは視線を女性の顔に戻した。  女性の顔は恐怖に引きつったままだ。 「突き落とした人……」  女性は聞き取れないくらいのか細い声を発した。 「え?」  一瞬、しゅうは女性の言った言葉の意味が理解できなかった。と言うより、本能的にその言葉を拒絶した。 「えっ?何ですか?」  聞こえているのに、うわずった声で女性に聞き返した。しゅうのみずみずしい唇は震えていた。  女性は少し落ち着きを取り戻して、低い声で言った。 「ホームで突き落とした男、さっきの男だわ。」
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