翅と羽

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翅と羽

 アルバイトが終わり、最寄りの駅の改札を通った蝶子(ちょうこ)は「ふう」と息を吐いた。  蝶子は個別指導塾で講師のアルバイトをしており、特に肉体労働なわけではないが、精神的には疲弊していた。  時刻は二十二時を過ぎており、「明日もシフト入ってるな」と思いながら、いつもの帰路を歩いていた。 「蝶子先生」  ふと背後から名前を呼ばれ、蝶子は後ろを振り返った。  そこにいたのは、この春に退塾した天根愛(あまねあい)だった。 「やっぱりそうだ!先生、お久しぶりです」 「えっ?天根ちゃん?久しぶり」  黒のショートボブだった天根の髪は、焦げ茶色に変わっていた。顔にも化粧が施されており、まだあどけなかった女子高生は、もうすっかり今どきの女子大生に様変わりしている。  天根は、今年の春に蝶子が卒業した私立大学に通っている。志望の学科も同じだったため、塾の空き時間によく受験について相談された。 「先生、この辺に住んでるんですか?」 「うん、そうだよ。もしかして、天根ちゃんも?」 「はい。実家がこの辺で」  天根は高校一年生から塾に通っていたが、蝶子の家と最寄り駅が同じだったことは初めて知った。  二人は近くの居酒屋に入って、飲み物と軽食をお供に互いの近況について話した。  天根は慣れない大学生活が大変なこと、新しい友達ができたことを楽しそうに話した。無邪気に子供っぽく笑う天根が、蝶子は本当に可愛らしいと見惚れてしまう。  塾で勉強を教えていた頃から、蝶子にとって天根は特別な存在だった。生徒に対してこんなことを思うなど、自分は不純な人間だとよく罪悪感を抱いたものだ。しかし、講師と生徒という立場でなくなった今なら、少しくらいは浮かれても良いだろうと思った。 「先生、全然変わらないですね」 「まだ半年も経ってないよ?そんなに急に老けたりしないって。……それに、もう先生なんて呼ばないで」 「えー、先生って呼ばないと、なんか変な感じがしちゃう」  いたずらっ子のような笑みを浮かべる天根を見て、蝶子は胸が高鳴った。こんなふうに無垢な笑顔を自分に向ける天根のことが、蝶子は好きだった。  しばらくの間、蝶子は天根と話し込んでいた。天根は「お手洗いに行ってきます」と言って一瞬席を外した。  一人ぽつんと残された蝶子は、バッグからスマホを取り出した。  すると、深夜だというのに新着のメッセージが一件届いていた。 「次、いつ会える?」  その一文を見て、蝶子は思わず舌なめずりした。 「明日の二十二時にバイトが終わるから、その後ならいいよ」と、返信した。返事はすぐに着た。 「分かった。マンションの前に車停めて待ってる」  その返信を見て、蝶子は下腹部が疼くのを感じ、息を呑んだ。 「すみません。お待たせしましたー」  天根が戻って来たのに気づくと、蝶子は慌てて手帳型のスマホケースを閉じた。  蝶子は自身の(よこしま)な感情を消し去るまで、天根のほうを見ることができなかった。 「――先生、連絡先交換しませんか?」  天根の提案に、蝶子は恐る恐る顔を上げた。  ラブホテルのベッドに腰かけ、蝶子は自身の脚に縋り付く男を見下ろしていた。  男は蝶子の足の指を一本一本丁寧にしゃぶり、それだけでは飽き足らずに足の裏にも舌を這わせる。 「先生」  蝶子がそう呼ぶと、男はビクッと身体を震わせた。 「もうこんなにしちゃって。……先生がこんなに厭らしい人だって知ったら、生徒たちはどんな顔するかな?」  そう言って、蝶子は下着の上からすでに固くなっている男のモノを軽く踏んだ。男は「うっ」と(うめ)く。  先生と呼ばれる男の名は、菊川伊月(きくかわいつき)、高校で数学教師をしている三十路の男だ。  成人とは言え、年下の女に「先生」と呼ばれながら踏みつけられて興奮する菊川に対し、蝶子は軽蔑と好奇心の眼差しを向ける。こんな奴に勉学を教えられている高校生たちが気の毒でならなかった。そして、自身も「先生」という立場であることがこの状況の滑稽さを加速させる。  ゆっくりと顔を上げる菊川の顔は、口元が涎で濡れ、いつもは生気のない目が爛々としているように見える。 「……っ、ごめん、なさい」  菊川はすぐに目を伏せ、消え入りそうなか細い声で呟くが、口元は少しニヤついているように見える。  蝶子は性器に乗せていた足にもう少し力を籠める。菊川は呻き声と喘ぎ声が混じったような声を上げ、うずくまる。 「……ねえ、早くこっちに来て」  菊川は身体を震わせて、息を荒げながらベッドによじ登る。ベッドの上で仰向けになって、下着をおもむろに脱いだ。  蝶子もその様子を見下ろしながら、下着を脱いだ。  菊川は震える手で避妊具を装着する。そして、蝶子は菊川の上に跨って、ゆっくりと腰を下ろした。二人の声が室内で共鳴する。 「――先生、気持ちいい?」  菊川の肩にしがみ付きながら、耳元でそう囁くと、恥辱と背徳感で彼は理性を保てなくなる。 「――ぅ、きもち、いぃ、です」  自分の下で情けなく喘ぐ年上の男の姿が、蝶子はおかしくてたまらなかった。  菊川から身体を離し、蝶子は脱力感でベッドの上に横たわる。  すると、菊川は後ろから蝶子を抱きしめ、何かを喋り始める。 「蝶子さん、いつもありがとう。すごく楽しかった」  菊川はいわゆるピロートークを楽しみたいタイプらしく、この後がダラダラと長い。普段は口数が少ないくせに。  普通、事後に恋人とのスキンシップを楽しみたいと思う女性は多いだろう。しかし、蝶子と菊川は別に恋人同士ではない。そのため、蝶子はさっさとシャワーを浴びて帰りたかった。  菊川のことは、きちんと男性として見ている。しかし、それに恋愛感情は一切含まれておらず、性的感情だけだ。  蝶子が菊川に好意を寄せないのは、別に彼が変態のマゾだからではない。彼が男性だからだ。  蝶子の恋愛対象は女性だ。――しかし、性的対象は女性でなく、男性だ。
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