476人が本棚に入れています
本棚に追加
/23ページ
嫌な奴?
それから厨房に戻って、再び菓子作りに没頭する。気がつくと、すっかり夜も更けていた。
今日は昼にあれだけ〈お務め〉を果たしたんだから、夜はもう呼ばれないはずだ。
「いて……」
没頭から覚めたからか、体の節々がちょっと痛んだ。机の上で無茶な体勢とか取らされるから――
『充分楽しませたつもりだが?』
アスランの不敵な声を思い出すと、ぞくっと体に震えが走った。しょうがなくやっていることなのに、おれの中のオメガの部分は、どうしようもなく反応してしまう。
「くそ」
おれは短く吐き捨てて、かぶりを振った。
今日はもうさっさと寝よう。
厨房を出て、雑魚寝部屋に向かう。
途中、涼しい風を感じた。中庭に当たる部分に水が張られて池になっている。そこを渡ってくる風だ。
今日までばたばたしていて気に留めていなかったけど、後宮の中にはこうして池になっているところがいくつかあった。水がふんだんにあるっていうことも、権威の象徴だかららしい。
水面には睡蓮が浮かんでいて、その合間には、ちょっと欠けた月が写っている。白い石造りの柱に青い波紋が映り込んで、ゆっくりと揺れていた。
綺麗で、ちょっと怖い。
水はおれに昔のことを思い出させる。向こうの世界の、子供だったころのことをだ。
頭を振って水辺をそっと離れたとき、突然、誰かに背中を押された。
え――
気がつくと、派手な水音を立てて、おれは池に落っこちていた。
誰が? いや、しょせんは池だ。落ち着け。まず立ち上がって――そう思ったのに、誰かが強い力で頭を押さえつけてくる。
子供の頃の記憶がよみがえった。
『やめて、やめてよ!』
『うるせえな! 躾だよ、躾!』
躾と言いながら、男の顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。
心臓がばくばくいって、冷静でいられなくなった。
「か、は……!」
水を飲んだ。息ができない。
やばい。おれ、また死ぬの、か? はは。おれ、簡単に死にすぎ。
でも、しょせんおれの存在なんて、そんなもんか――
諦めて、意識が飛びそうになったとき、鋭い声が響き渡った。
「そこでなにをしている!」
同時に、押さえつけられていた力がふっと緩まり、おれはどうにか水の上に顔を出す。パニックで周りがよく見えない。心臓のばくばくはおさまらなかった。
「ウミト」
アスランが外廊に膝まづき、こっちに向かって手を差し出している。そこで、意識は途切れた。
最初のコメントを投稿しよう!