1章 ならまちの薬草珈琲店

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1章 ならまちの薬草珈琲店

 夜、幾千の灯が輝く光景を目の当たりにしたとき、人は何を感じるのだろうか。美しいとため息をつく人。好きな人とのロマンスを思い出す人。ノスタルジーに浸る人。太古の昔から流れる血が沸き立つような人がいるかもしれない。  しかし、それが、人外の者と心の通じ合うような人間であったら、どんな風に見えるのだろう。  ー ー ー ー ー ー  近鉄奈良駅。東大寺や鹿で有名な奈良公園へのアクセスのために数多くの観光客が利用する、奈良の主要駅の一つ。その駅から南へ10分から15分ほど歩いた場所に「ならまち(奈良町)」というエリアがある。奈良時代から続く元興寺の旧境内を中心とした歴史的景観地区となっており、国内外の観光客もよく訪れる場所だ。現在でも伝統的な町屋が立ち並んでおり、路地に面した窓側の「格子」がその風景を特徴づけている。最近ではモダンな飲食店や雑貨店も増えてきている。  ならまちエリアの一角に、「ときじく薬草珈琲店」と看板を掲げるカフェがひっそりと店を構えている。この物語は、その小さな薬草珈琲店を中心に進んでいく。  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  夏。8月中旬の平日、月曜日のランチタイム。いつも通り、ときじく薬草珈琲店の店内はささやかな賑わいを見せている。 「では、ご注文を繰り返させていただきますね。枝豆のポタージュセットがおひとつ、トマトの冷製スープセットがおひとつ。お二人ともパンはバタートースト。食後の薬草珈琲はスギナ珈琲がおひとつ、ウコンの珈琲がおひとつでよろしかったでしょうか。」二人の客がそれぞれ頷くと、バイトの佳奈は軽く会釈し、元気よくその注文をカウンターに通しに来る。  カウンターの奥では、この薬草珈琲店の店主である今里琴音(いまざとことね)とバイトの佳奈の母親、真奈美が淀みなく調理を進めている。「佳奈ちゃん、ありがとう」と琴音が笑顔で注文を受ける。  店長の琴音は色白で、少し弱々しく儚(はかな)げなオーラを纏っている女性だ。しかし、その瞳の奥には意思の力が感じられる。琴音には、この薬草珈琲店を通して成し遂げたいことがあった。その想いを込めながら、琴音は今、プレートの盛り付けを進めている。  ときじく薬草珈琲店では、開店の11時からランチメニューが始まる。選べるスープとパン、サラダ、小皿、薬草珈琲がセットで1,000円+αの価格設定。カウンターが4席と、小さなテーブル席が3つ。こぢんまりとした店舗ではあるが、ランチ時間には顧客が集まるのでそれなりに忙しい。休日は観光客の割合が多いのに対して、今日のような平日は奈良市内の客、固定客が多い。  12時現在、席はほぼ満席。カウンターの一番奥の席は少し狭いけれど、そこは常連の高橋さんの定位置となっている。高橋さんは歯科医の奥様で、健康意識が高く、近くの奥様方を集めて自宅でサロンや勉強会なども行っているような人だ。高橋さんの横にはメガネのワイシャツ姿の男性。琴音は会話をしたことがないけれど、よく来てくれる客だ。3つのテーブル席はすべて埋まっていて、30代前後の女性の二人組がふたつ、50代くらいの女性の二人組がひとつ。テーブル席の人たちは、おそらく新規のお客さんだろう。 「高橋さん、すみません。遅くなりました。横からすみません~」琴音は手にしているランチのプレートを、高橋さんの横から丁寧に滑り込ませる。 「いいのよ。今日はどんなメニュー?」高橋さんは時々、メニューの解説を求めてくる。 「はい。暑いのでトマトのスープが気持ちいいと思うんですけど、トマトはいちど火を通しています。また、フェンネルも加えているので、身体を冷やしすぎないように、と工夫をしています。小皿も・・トマトが重なっちゃったんですけど、フレッシュトマトのマリネです。こちらは乾燥した大和当帰葉とオリーブオイルを用いて、暑くて消耗した血や体液を少しでも補えたらと思って作りました」 「ありがとう。いつも通りのヘルシーさね。」微笑みながらそう言うと、高橋さんは自分のプレートに箸を伸ばした。  周囲の客もその会話に耳を傾けていて、マリネ美味しいよねとか、大和当帰の香りした?とか、その小さな空間はランチを楽しむ雰囲気へと変わっていった。ワイシャツ姿の男性も、ひとり静かにマリネを口へと運んだ。  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  14時。佳奈の母、真奈美は、ランチで使った食器をおおよそ洗い終え、本日は終了とした。彼女は昼の忙しい時間だけ手伝うこととなっている。真奈美は店の奥で身支度を整え、帰路につくところだ。これからは、店長の琴音とバイトの佳奈の時間となる。 「真奈美さん、今日もありがとうございました。お疲れ様です」 「お疲れさま〜。琴音ちゃんも引き続き頑張ってね。佳奈もしっかりね~」  3年前に母親を亡くした琴音にとって、真奈美の母親らしい、包容感のある温かな言葉は心に沁みる。琴音は真奈美にかけられた言葉を心の中でもう一度繰り返し、よし、後半の営業も頑張ろう、と思った。  しばらくして、新しいお客さんの来店があった。扉が開き、「カフェ営業してますか?」と入ってきたのは、大学生に見える若いカップルだ。 「いらっしゃいませ」「いらっしゃいませ」と、店側の二人も客を招き入れる。 「いらっしゃいませ、こちらがカフェメニューとなります。よろしければ、キッシュやタルトとお好きな薬草珈琲のセットがお勧めです。」バイトの佳奈が積極的に接客する。 「この薬草珈琲ってどんなものなんですか?」と女の子。 「はい。日本には、素敵な香りがありながら、同時に、身体にも良い作用をもたらす薬草や薬木がたくさんあるんです。それを・・うちではデカフェを使っているんですけど、そのカフェインレスコーヒーと薬草木の香りをミックスして楽しんでいただくのが、薬草珈琲なんですよ」 「へ〜、新しいですね。何か・・お勧めってあります?」 「じゃぁ、ひとつだけ質問させてもらってもいいですか?例えば、1年を通してですけど、冷えと火照り、どちらか気になったりするものはありますか?」 「冷え・・ですかね」 「なるほど。夏でも冷房などで体が冷えてしまいますもんね」 「そうなんですよ。インターン先の仕事場が、雰囲気はいいんですけど、冷房が強くて・・・」 「こちらの店内は大丈夫ですか?」と佳奈は女性客に聞いてみる。店内には、かすかに冷房がかかっている。 「はい、これくらは大丈夫です」 「では・・・、棗とショウガの珈琲などいかがですか?ショウガが少し身体を温めてくれて、棗のほんのりとした甘さが元気を与えてくれるかもしれません。スイーツは、当帰葉が練りこまれたカヌレなどいかがでしょう。カヌレなんで一口ですけど、大和当帰(やまととうき)が少しだけ、手や足の冷えの解消に役立ってくれるかもしれません」 「大和当帰・・って何ですか?」 「はい。大和当帰は奈良県が注目している薬草で、血行促進に良いとされているんです。根の部分は当帰芍薬散という女性向けの漢方の原料ともなっています。セロリに近い香りでお料理の香りづけとしても素敵なんですけど、意外とスイーツにも合うんですよ」 「ふうん、じゃあ、それ、試してみようかな」 「ありがとうございます」  女の子の注文を笑顔で受けてから、男の子の注文も確認した。男の子のほうは、キノコたっぷりのキッシュと、ハトムギきなこラテを注文。カフェタイムの軽食メニューだ。彼女と一緒に食べたランチが少し足りなかったのかもしれない。  女の子用に、乾燥ナツメ1.5gと乾燥ショウガを0.5g、コーヒー豆15gをミルで粉砕・撹拌してから、ペーパーフィルターのセットされたドリッパーに移す。男の子のラテ用には、コーヒー豆15gをミルで粉砕してからもう一つのドリッパーにセット。2つの電子はかりを用いて2つのコーヒーを同時に淹れる。男の子用のコーヒーにはお湯を少しゆっくり注ぎ、濃い目に抽出する。コーヒーがサーバーに落ち切ったら抽出は終了。女の子用の棗ショウガ珈琲はそれで出来上がりなので、サーバーからマグカップへと注ぎ入れる。  次は男の子用。均一に混ぜ合わせられたハトムギ粉ときな粉の準備されたマグカップにコーヒーを注いでいき、撹拌してから、最後にホットミルクを加えてラテを完成させる。レジ横のショーケースからカヌレとキッシュを取り出し、それらの薬草珈琲と一緒にプレートに乗せる。 「お待たせしました。女性の方はこちらですね。当帰葉入りのカヌレと棗ショウガ珈琲。男性の方はキノコのキッシュとハトムギきなこラテとなります。どうぞごゆっくり」 「ありがとう。美味しそう~。」女の子の期待感も高そうだ。  男の子のほうも「お~」と言いながら、目の前のプレートにワクワクしてくれているようだ。  交通量も多くない、ならまちの小路。格子窓の内側も外側も、穏やかな時間が流れている。格子の隙間から見える外の光は、温かな古き良き奈良の時間を感じさせる。  やがて、ひと通り飲食とおしゃべりを楽しんだ二人組は荷物を持ち、レジ前へとやってきた。 「ごちそうさまでした~」 「ありがとうございました。薬草珈琲など、いかがでしたか?」レジも佳奈が応対。 「そうそう。私の体が温かいものを求めているって事を、今日、知りました」 「おお、良かったです。ちょっとは温まっていただけましたか?」 「うん、暖かさが染み渡りましたよ~。ショウガって、お腹から温めてくれるんですね。・・・そうだ、何か、毎日食べるものでお勧めってありますか?」 「そうですね・・本当はしっかりお聞きしないとちゃんと判断はできないのですが・・、ネット検索で「体を温める薬膳食材」で調べてみてはいかがでしょう。その中で、好きな食材があったらしばらく試してみるとか。個人的には、ラム肉などはすごく身体を温めてくれますけどね。あとは、飲み物も温かい紅茶やほうじ茶を飲んだりとか。薬膳では、紅茶もほうじ茶も、身体を温める性質を持つとされています。あと、服をもう1枚プラスするとかですかね」 「すごい。いろいろ・・できることがあるんですね。試してみます!」  佳奈と客の会話の様子を、琴音もカウンターの奥から優しい笑顔で見守っていた。  その日はその後、カフェタイムに3組、夕方に2組の客が来て、思い思いの食を楽しんで帰っていった。18時頃に、注文していた薬草類が届く。送り主には“上松ファーム”と書いてある。奈良県高市郡高取町の農家さんだ。ときじく薬草珈琲店の薬草類の多くは、この農家から仕入れている。届けてくれた宅配業者にありがとうと言葉を交わし、その時点で本日のおおよその業務が終了した形となる。 「じゃあ、すみませんけど、先に帰らせてもらいますね」と、バイトの佳奈。本日は両親と夕食を食べる予定で、早めに仕事を切り上げることとなっていた。 「うん、ありがとう。お疲れ様。佳奈ちゃん、今日も接客と薬草トーク、ばっちりだったね」 「ありがとうございます。いつも横で説明を聞いてるんで、だんだんと覚えてしまいました」 「そんなこと言いながら、舞先生の授業もちゃんと頑張ってるやん。」舞先生とは、琴音と佳奈に共通の、薬草の先生だ。 「そうですね。一応、頑張ってます笑」 「うん、佳奈ちゃんえらいよ。ちゃんと頑張ってる。・・・あ、そうだ。この当帰塩、真奈美さんに渡しておいてくれる?」琴音は店で余らせた当帰フレーバーの塩を小さくラップに包み、佳奈に手渡す。 「美味しいやつだ。お母さん、喜ぶと思います。・・ではまた明日!」 「また明日~」  30歳を少し過ぎた琴音から見ると、20代半ばの佳奈は元気そのものだ。しかし、ただ若いだけでなく、琴音の薬草珈琲の考え方に共感し、共に推進してくれている心強い同士でもある。そんな佳奈の後姿を、琴音は頼もしそうな面持ちで見送った。  一緒に仕事をしてくれている真奈美と佳奈の母娘コンビは、琴音にとって大切な仲間だと言える。しかし、毎週、月曜日の夜は、琴音の一番の心の支えとなっている友人が店に遊びに来てくれる時間帯だ。店の片付けなどを進めながら、琴音はその友人が店に来るのを待った。
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