あなたに一杯の珈琲を その壱

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あなたに一杯の珈琲を その壱

 優しい味がした。  それが彼女の淹れてくれた珈琲の第一印象だった。  突然に訪れた出逢いは、何気ない日々を波立たせる。  一杯の珈琲が、俺の人生の転機になるとはこの時は思いもしなかった。  日本は開国して西洋の文明を受け入れた。これまでの武家中心であった制度や習慣が大きく変化した現象を文明開化と呼んでいる。この文明開化によって一般庶民の生活は少しずつ豊かになっていった。  さらには明治二十二年に大日本帝国憲法が発布されて、人々の生活は江戸の頃と比べると大きく様変わりしたらしい。  らしいというのは、俺は明治生まれで、江戸を知らないから。何がどう変わったのか分からなくて、両親や祖父母の昔話を子供の頃に聞かされて……ああ、変わったんだ、と感じる程度だ。都会では明治維新の後にやって来た文明開化で憲法が発布される前に和風から西洋風に街並みや人々の生活様式が既に変わっていたというのだ。  けれども、貧しい寒村には文明開化がやって来ない。来たとしても噂程度のもので、都会から帰って来る人達の嘘か真か、信じて損をするだけの夢みたいな土産話が、この寒村の文明開化だ。  兄弟の四番目に生まれた俺は、家族にとっておまけのような存在だった。藤崎四郎(ふじさきしろう)──それが俺の名前だ。藤崎家の四番目の男子。名前が俺の経歴を物語っている。俺は生まれてから今まで、小さな共同体で過ごしてきた。そこには必ず上下関係が存在している。生まれた順番が先か後か。兄か弟か。男か女か。こんな関係は面倒臭いと思っていた。大したことないのに。解せなかった。ずっとだ。ずっとずっと──物心ついた頃からだ。必ず村を出て、思いっきり背伸びをして生きていきたい。そうだ、文明開化を感じられる都市へ行こう。  農業で金を稼いではいるものの、しんどい。正直しんどい。金は減っても増えない。俺は生きるためだけに金を稼いでいる。これはもうしんどい。  大人になって酒も飲めるし、煙草の嗜み方も知っている。けれど、俺の仕事ときたら子供の頃と変わらずだ。日本が開国した、西洋化が進んでいるなんて微塵も感じられなかった。 「ふう……」  天を仰ぎ見ると、鳥が空を飛んでいた。あれは……何という名前の鳥だったか。ああ……もう見えなくなってしまった。夏が過ぎて随分と涼しくなった。  秋はいい。空が高くて、凄く自由な感じがする。  暑くも寒くもない。外出日和だ。 「藤崎。お前さ、東京で働かないか?」 「え……」  先に東京に行った友人の朽方(くちかた)から突然の誘いだった。 「俺が今働いている料理店なんだが、人手が足りなくて。故郷に帰った際に興味のある奴がいたら、誘ってみてくれと同じ職場の人達からも頼まれててさ」 「嬉しい誘いだけど、俺は料理なんてできないぞ」  包丁すらまともに握ったこともないし、米の炊き方だってできない四男だ。 「いや……厨房じゃなくて、接客全般だ」 「接客?」  俺は首を傾げた。 「うちの店は西洋料理店で、男性が接客するのも一般的なんだ」  それが西洋式なんだとか。  俺は目を瞑り、深呼吸をした。東京に住める。仕事がある。四男の自分にも未来がある。頭の中に浮かぶのは、自由と希望に満ちた輝く都市だった。答えを出すのは速かった。迷いが無い訳では無いが、田舎にずっと住むよりは断然良い。それに長年付き合いのある朽方からの誘いでもあるのだ。 「俺、東京に行くよ」  家族に朽方の紹介で東京の西洋料理店で働くことを告げると、皆呆気なく承諾してくれた。  こうして東京行きが決まったが──俺の東京行きは、当て所のない旅でもあった。
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