忘我の淵と善性の際。

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忘我の淵と善性の際。

──日没の路地裏。ぐずつく天気と裏腹肌を撫でる風は何ものかが息づく気配を孕み、どことなくざらりとした舌触りの空気には仄かな苦味が雑ざる。 俺は深く深く溜息を吐いたのちに背後に居た少年に声を掛けた。その際には振り返ることもしなかったが、互いに気心知れた間柄という事でそんな事を今更突っ込むことも無い。 「蒼也」 「はいよ、っと」 ……名を呼ぶ声に脳天気な返事が被さると、堪らず自分の眉間に皺が寄るのを感じた。なんだってコイツはこんなにお気楽を地で行けるのか。俺には到底理解出来かねる。理解しようとしたところで自分の頭痛の種が増えるからその気も起こらないが。 なにせここに『生きた人間は居ない』のだから、気楽になれる要素が見当たらない。 俺達以外の路地裏を行き交う人影は"ヒトで在ること"だけを目的としているかのように顔貌の像すら結ばず、黒いノイズが辛うじて人間の体裁を保っているかの如く僅かな雑音を伴って蠢いていた。 前を見据える俺の隣に並び立った少年──相嶋蒼也は掌でルービックキューブ大の小箱を弄びながら好奇心を抑え切れぬ声でこちらに向かって問い掛けた。顔を直接見たわけでは無いので断言は出来ないが、眼鏡の奥の瞳は隠し切れない知識欲が滲み、薄い唇は愉悦に吊り上がっていたことだろう。 「どうする?俺的には残留思念の浄化か、この地帯の封鎖プラス爆破がベストだと思うけれど」 「封鎖には範囲が広過ぎる。お前の匣に閉じ込めておけるのはせいぜい二十人が限度、明らかにこれは定員オーバーだ。爆発するのは容量超過の匣よりお前の頭の方が先だぞ」 「え〜……匣の範囲を拡張出来なくも無いけど、紅誠くんの見立てなら多分間違ってないんでしょーよ。そこまで言うなら浄化の方にしとく?大人数の残留思念をチマチマ始末するより、一度真っ白にしちゃった方が手っ取り早いか」 「──……」 "寂しい、辛い" "なんで置いていったの" "あの子はどこ" "きっと見つけ出す" "許さない" "くらい、こわい" "ここで死ぬ訳にはいかない" "──誰か、だれか!" ──全く、ひどい苦味で舌が千切れそうだ。雪崩込んでくる思考の切れ端も頭の端々でぶつかり合い火花を散らして、その残滓と思しき頭痛を引き連れてくる。冗談じゃない。なんだって俺がこんな馬鹿と組んで、こんな面倒くさい場所に来ているのか。叶うことなら出逢った日まで時間を巻き戻してあの時コイツに声を掛けた自分をぶん殴ってやりたい。 「うえ、」 ……絶えず味蕾を嬲られる心地に、堪らず眉を顰めて舌を出した。常人よりも赤みを帯びたそれの中心には燐光を放つ刻印が捺されている。 「……てかさ。紅誠くんの顔色ひっどいけど、今回の奴らはヤバそうな感じ?普段よりかなりしんどそうじゃん、何なら俺一人でも行け──」 「あ?誰がしんどそうだって、この通りピンピンしてるわ。何ならお前から食らってやろうか」 「丁重に遠慮申し上げます」 指摘されたことを認めるのは癪だが、正直なところ具合は余りよろしくない。意識が保つのは大方三十分程度、その間にケリをつけないと蒼也共々仲良くこの残留思念達の仲間入りだろう。 ぱき、と。靴の裏が枝を踏む音がした。 「……俺達の行為は神父の救済には遥か遠く、悪魔の与える絶望の足元にも及ばない。それでも"やらないよりはマシ"なら、必ず誰かが泥水を啜る必要がある」 「逝く事も出来ず、還る事も出来ない子がただ増えるのは見てられないもんなあ」 "連れて逝ってくれ" 血に汚れた月夜の記憶が、脳裏を掠める。 「──今、」 助けてやるからな、とは口に出せない。 代わりに地を蹴る音が響いた。 黒水晶の眼は今や紅玉と化し、大きく口を開けた中に並ぶ歯はひとつ残らず鋭く尖っていた。左腕は獣のそれに変貌を遂げ、立ち並ぶ影達の首元を薙ぎ払う──これは"記憶の捕食者"である紅誠特有の身体変化。他人には余り見られたくなかった姿なのだが、紆余曲折有って"匣庭の管制塔"である蒼也と行動を共にしている。 「──、……」 ──がり、ごり、と。斃れた人影に噛み付いたそばからノイズにあるまじき音が漏れた。生身の人間であれば目も当てられない惨状になっていただろう。ひとり、ふたり、さんにん。指折り数えるのも面倒になる数の影に鉤爪を振るっては、その度ひとつずつ丁寧に喉笛へ齧り付いた。 「紅誠くんー、もうそろそろ良いよ」 ……立ち尽くしている影の姿が無くなった頃、漸く蒼也が声を掛けてきた。遅い、と口からまろび出そうになった言葉が音の形を成していなかった事に気付くと自らの袖口で口元を拭う。 「はーい。んじゃ、始めましょうか」 憎たらしいほど気楽な声に舌打ちをすると、俺はアイツの手元へと意識を集中させた──蒼也の手元では先程の小箱がくるくる、くるくると繰り返し回転している。箱の隙間からは燐光が漏れ出し、薄闇の帳の降りた路地裏を淡く照らしていた。 「『おいで、君達の還るべき場所へ』」 ──眼鏡越しの瞳が優しく細められた、瞬間。 ヒトの形を辛うじて保っていた影達の端々が徐々に溶け崩れたのちに霧散し、黒い煙となって蒼也の持つ小箱の中へと吸い込まれていった。普段の挑戦的な眼とは打って変わって慈愛すら籠った眼差しはその間も絶えず箱だけに注がれている。 ……そして倒れ臥す影がひとり、またひとりと消えていき、背後のひとりが崩れていく瞬間。 "やっと、やっとあえるね、おにいちゃん" ──小さな女の子の声がした。 ─── 「お疲れ様ー」 「……お疲れ」 残留思念の殲滅を終えてから初めて目が合った蒼也に、俺は態とらしく苦々しい表情を向けてみせた。肉体労働はこちらの仕事と言わんばかりの涼しい顔が腹立たしいことこの上ない。 「なーに、ご機嫌斜めなの?」 「別に。……さっきの残留思念達から【抽出】はするのか」 「あー……まあ一応。今回は影の数が多いだけで、そこまで強い念は感じられなかったけどね」 蒼也の匣の中に捕らえられた思念達の中で特に想いの強かったものは【抽出】という篩を経て様々な薬に精製されるらしい。俺は作成の過程を見せて貰った事は無いが、蒼也曰く「面白いものでもないよ」とのことなので無理矢理見る気にもならない。 ──そう、過程を見た事が無い。 だからこそ、思わず皮肉が口を突いて出た。 「良い商売だな」 それを呟いた瞬間、蒼也の双眸が見開かれた。 「──」 ……流石に言い過ぎたか、と。謝罪の言葉を重ねようとした瞬間、蒼也は口の両端を静かに持ち上げた。 「……そうだね。でもこれだけは忘れないで欲しいな、『俺もお前も』所詮は人でなしだ。一縷の希望に縋ってここに想いを残していった人達の願いを、努力を踏み躙って無に帰す。──『なあ、今回は美味しかったかよ?』」 ──ああ、やはり、やっぱり。 俺はコイツがどこまでも嫌いだ。 「クソ野郎が」 「褒め言葉だね、紅誠くん」 願いの感情が正負問わず、 多くの人が願いを懸けた場所には、 彼らが現れるのかもしれない。
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