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救われた
「ねぇ、先生。俺、どうしても叶えたい願いがあるんだけど」
そう切り出したのは、家政婦がおやつを持って来てくれた休憩時間だった。
その日のおやつは、京都の有名料亭から取り寄せた、レンコンでできたわらび餅のような菓子を、笹の葉で包んだ物だ。
彼女は仁科家で食べた事のない美味しいお菓子を口にできるのを、とても楽しみにしているようだった。
だから暁人も母に「世話になっている先生に美味しい物を食べてもらいたい」と伝えていた。
暁人の母も、ずっと落ち込んでいた息子が明るくなり、成績まで伸びた事について、芳乃にいたく感謝していた。
なので彼女は両親のお気に入りでもあった。
「ん? 願い? 夢っていう事?」
品のいい甘さのお菓子を食べ終えて、芳乃は満足気に水出しの緑茶を飲んでいる。
「夢……かな。でも、絶対に叶えたいから夢にはしておきたくない」
「うん、確かに。夢っていうとちょっといつ叶うか分からない、ふんわりとした目標っぽいね。じゃあ、願いだね」
「ん」
暁人は嬉しそうに頷く。
彼の願いはたった一つ。
彼女に認められる男になり、芳乃と結婚する事だ。
しかし幸治に言われたように、家庭教師と生徒という関係の間は、告白をすれば彼女を困らせるだけだと己を律していた。
だから、無事に自分が彼女と同じT大に合格したあと、きちんと彼女に告白して正式に付き合ってもらいたいと思っていたのだ。
「でも、叶うかどうか心配だな」
「やってみないと分からないでしょう?」
芳乃に言われ、暁人は励まされる。
「ん、絶対叶えてみせる。うまくいかなかったら……、先生、慰めてくれる?」
「牛丼ぐらいなら奢るよ?」
明るく笑った芳乃の言葉に、暁人も思わず笑顔を見せる。
「ねぇ、先生って本当に彼氏いないの?」
気になっている事を口にすると、芳乃は「もー」と呆れたように笑う。
「大学生って結構やる事一杯で忙しいよ? 好きな勉強、好きな事をできているからありがたいんだけどね。私は就きたい職が決まっているから、そのための勉強や資金集めに必死なの」
「就きたい職って?」
暁人は興味を示す。
自分は神楽坂グループを継ぐ事が決まっている。
芳乃がどんな職種で仕事をするかによって、彼の中で妄想の同棲生活が変化する。
今までシミュレーションした中では、会社帰りの彼女を車で迎えに行って、夜景の綺麗なレストランで食事……など、ベタ中のベタであるが、そのような妄想に浸って悦に入っている事があった。
「ホテル業」
けれど思いのほか〝近い〟職種が出て、彼はギクッと身を強ばらせた。
「……意外。芳乃さんなら、もっと商社とか金融とかいきそうなイメージがあったけど」
「そう? ホテル業に就くのは、子供の頃からの夢だったんだ」
言ってから、芳乃は大切そうに思い出を語り始める。
「子供の頃、箱根にある〝海の詩〟っていう温泉ホテルに家族で行ったの。そのホテルがとても綺麗で、スタッフさんのサービスも最高で、『ああ、こういう所で働きたいな』って思ったの。それがきっかけ」
心臓が止まるかと思った。
〝海の詩〟は、仁科グループが経営しているホテルの一つだ。
同じ〝仁科〟だが、まさかこの家がその仁科だとは芳乃も思っていないだろう。
名字そのものは珍しくなく、彼女自身、富裕層の子供に教える事はあっても、その親がどんな仕事をしているかは知らないし、下手に探ろうとすれば失礼に当たる。
だから、目の前に居る仁科暁人が、その仁科グループの会長の孫だという事も分かっていない。
静かに動揺している暁人の前で、芳乃は〝海の詩〟がいかに素晴らしいホテルであったかという思い出を話している。
「フロントのお姉さんが英語ペラペラでね。観光客の外国人相手に笑顔で話していて、素敵だなぁって思ったの。大変な面もあると思うけど、誰かがとっておきのひとときを過ごすために、あらゆるものを提供する仕事って、とても素敵じゃない?」
「そう……、だね」
暁人は歯切れ悪く返事をするが、彼女は気付いていない。
「そういえば、神楽坂グループって今大変だよね」
芳乃の言葉に、暁人はギクリと身を強ばらせる。
「意図的なミスでもないだろうし、ミスをしたのはきっと一人、そして関わっている直属の上司とかだろうけど……。結局責任として会社が謝らなきゃいけないんだよね。仕方のない事とはいえ、ここまで大事になって気の毒だな……」
しかし彼女はとても冷静に事態を捉えていて、そのものの見方に暁人は泣き出しそうな安堵を得た。
「……叩かれるべきとか、思ってないの?」
そろりと尋ねた暁人の言葉に、芳乃は目を丸くした。
「何で? どこの企業でもあり得るミスで、やろうと思ってやった事じゃないんだよ? 被害を被ったなら怒る権利はあると思うけど、世間でワーワー言っている人たちの大半は、神楽坂グループのホテルに泊まった事すらないんじゃない? 関係ないのに他者のミスを責め立てるような人に、私はなりたくないなぁ」
彼女の素の言葉に、暁人の中でずっと渦巻いていた罪悪観が、フワッと軽くなった気がした。
芳乃は物事をとてもフラットに見る人で、感情的にならず冷静に判断をくだせる人だ。
そんな面に憧れるし、尊敬するし、心底好きだと思った。
(この人を好きになって良かった……)
心の中で彼女への思いを噛み締め、暁人は俯いて泣きそうになる表情を隠す。
――救われた。
心の底から、そう思ったのだ。
(芳乃さんがこう言ってくれるなら、学校でだって頑張れる。世界中の人が会社を責めても、芳乃さんが味方でいてくれるなら、立派に神楽坂グループの跡を継いで、もっと良い会社にしてみせる!)
その時、十七歳の少年の心の中で、一生を左右する固い決意がなされた。
彼を救ったと思っていない芳乃は、最後に明るく言った。
「こういう時は、私は〝買って応援〟してるよ。今回はホテルだから気軽に買い物とかできないけどね。卒業したらホテル業に就きたいと思っているし、いずれ勉強もかねてお金を貯めて泊まりたいなぁ」
そして芳乃は時計を見て「あっ」と声を上げ、「休憩時間終了!」と言った。
雑談は終わりまた勉強の時間が始まったが、暁人の心はやる気と幸せとで満ちていた。
**
T大受験は無事合格し、暁人は〝ご褒美〟として芳乃とデートしてもらう事になった。
彼女は少しお洒落をしていて、ボーダーのロングTシャツにブラウンのチュールスカート、その上にベージュのジャケットを着ていた。
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