航海演習と海洋事情(クリフ)

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航海演習と海洋事情(クリフ)

 チェスターの結婚式も無事に終わって、騎士団は比較的平和な日々を送っている。  とはいえ訓練がなくなるわけでもないし、一度荒れたラン・カレイユの復興の為に騎士団が派遣される事も多い。争い事は少なくなったけれど、日々はそれなりに忙しいものだ。  そんな中、第三師団と第四師団の合同訓練の話が持ち上がった。それは将来、ウルバスが騎士団を離れる事を想定しての軍事訓練だった。 「船医、ですか?」  第四師団の中でも特に衛生兵として動いている面々が十数人集められての説明会で、クリフは首を傾げた。  第三士団は海軍という側面も持ち、操船や航海技術の修練の為に遠洋訓練なども行っているとピアースから聞いている。海洋訓練で一週間不在というのは年間を通してあることだ。  だがそれに第四師団が同行した事はなかった。  前に出たオリヴァーの側にはウルバスもいる。どことなく、師団長二名の表情は硬いものに思えた。 「本来、船一艘につき一名、医療技術を持つ人間が乗り込むのが理想です。ですが皆さんご存じの通り、我が騎士団の医療人は少数精鋭で人数も足りていません」  それは誰の目から見ても明らかだ。医療府は年間を通して忙しい。こんな場所では小さな怪我だけでは収まらない。骨折や、訓練での怪我は日常的。集団生活のため風邪や腸炎なども早めに見つけ出して隔離、治療しなければ全体に蔓延してしまう。  これでテロだ戦争だとなれば鬼気迫る忙しさである。  だからといって無闇矢鱈と人を増やす事も出来ない。適正と技術がある。ここが機能しなくなれば騎士団はある意味終わりだ。  その為の第四師団、衛生兵部隊である。  現場に出て応急処置を施し、延命に努める。その為なら手術までする。きっちりとした設備が整っていなくても、生きたまま医療府へと渡せるようにするのがクリフ達の仕事だ。 「そこで、第三師団の海洋訓練に同行し、船上での怪我の治療や病気予防、衛生管理などを行う訓練をしたいと思います。船の上は陸上とは大きく違いますから、我々としても学ぶ事は多いでしょう」 「あの、オリヴァー様。何故いきなりそのような事を行うのでしょう? 何か懸念でもあるのですか?」  他の隊員から質問が上がる。これはクリフも思った事だ。  これまで海上訓練など経験がない。クリフ個人は西から帝国に戻る最中などでやむを得ず治療を行ったが、他は聞いた事がなかった。  オリヴァーがウルバスへと目配せをする。それを受けて、今度はウルバスが前に出た。 「ここからは俺が引き継ごう。全員分かっていると思うが、現在帝国は建国以来最も安定的な理想体勢だと言っても過言ではない。多少の懸念はあれど大きなテロ組織はなく、北の大国クシュナート、東の大国ジェームダルとの三国同盟も締結した。軍事、文化、政治、商業でも順次友好的な協定が行われている。そして、三国の王の気質からも当代王の間に裏切りが行われる事はまずないだろう」  これには皆が頷く。苦労も犠牲も払って得た平和な時代がそう簡単に崩れるとは思っていない。クリフ自身、クシュナート王アルヌール、そしてジェームダル王アルブレヒトを知っている。王として人として鋭い部分もありそうだけれど、義をもって人と接する人だと思っている。  だがそれなら余計に、船医まで乗せての本格的な訓練は必要なのだろうか?  クリフの疑問は直ぐに、ウルバスから投げ込まれた。 「問題は西、大国ウェールズだ」  聞き慣れない国名に、クリフは僅かに首を傾げる。その間にオリヴァーが国境線の地図を広げていた。 「西ジュゼット領の先にある大国で、外洋に面した国だ。ここは何度か帝国にも手をかけていたんだが、ここ数年は大人しかった」 「何故ですか?」 「国王が老齢で、跡取りの王子が五人いた。結果、誰が次の王位に就くかで大揉めに揉めて内乱が起こっていたんだよ」  うんざりという様子のウルバスだが、同時に「おかげで助かったけれど」とも言う。 「けれどその前、カール陛下即位の直前まで戦っていた国なのです。あの当時はまだジュゼット王国との連合軍でしたが」 「あの時は、まさか代替わりと同時に同盟を反故にされて戦争することになるとは思わなかったよ。おかげで連戦になるし、こちらは軍部が縮小して人が減って大変だった」  当時の苦労を知るオリヴァーとウルバスは苦笑したり溜息をついたりしている。ここに集められた第四の中にも数人、当時を知る人なのか引きつった笑みを浮かべていた。 「内乱が終結して新王が即位したのが、今から三年くらい前。そこから軍部や国内を整理していたと聞いている。そしてそろそろ、またこちら側の土地が欲しい頃だ」 「何故そこまでして帝国の土地が欲しいのですか?」  クリフの質問に、ウルバスは頷いて地図を指出す。ウェールズと、西のジュゼット領の境だ。 「奴らは内海に面する土地が欲しい。今、この国が向いている海岸線は全て外界側。ここは冬季には寒く荒れて船を出す事も困難。しかも風と潮の関係でクシュナート側を通る事になる。漁もやりにくい」 「加えて土地はそれほど広くはありません。帝国とクシュナートに挟まれて酷く窮屈なのです」 「内海は冬でも潮の流れは穏やかで凍る事もないし、漁場としても豊かだ。そして内海を通せば帝国、ジェームダルと船を使って行き来ができる。内陸を使うとかなりかかる道のりを大幅に短縮できるんだ」  流通の利便性、漁場の問題。これらの事からウェールズは帝国の土地を欲している。 「でもそれなら、帝国と同盟を結んで港の使用権を得た方が」  争いよりも対話。そのような考えのあるクリフは提案するが、上官二名は困ったように首を横に振った。 「それが出来ていれば、こんな面倒な戦争など回避できているんですよ」 「なんていうかな。あの国はプライドが高いんだ」 「プライド……ですか?」 「現在の国土はとても大国なんて言えない。それでも自らを大国ウェールズと名乗るのは、かつての国土を誇りとして、いつの日かそれを取り戻すという奴らの決意と執念なんだ。そんな奴らがこちらに頭を下げて港の使用権を下さいなんて、言えるわけがないよ」  なんとも呆れた……くだらない理由に思える。けれど笑えないのが、一昔前の帝国がまさにその路線を行き、今に至るからだ。  かつての国土を取り戻す。前王時代、その為に多くの戦が行われ、結果沢山の小国を併呑したりして現在に至る。この時代が招いた多くの悲劇を僅かでも知るクリフとしては、ウェールズの野望を笑う事ができなかった。 「まぁ、こんな感じなんだ。春から秋までは潮が変わって内海側へもきやすくなる。奴らが海戦をしかけるならそろそろだから、その前に訓練をしておきたいと思ってね」 「第四としても経験を積める機会です。近年は衛生兵への志願者が増え、中に優秀な者もこうして数が集められるようになりました。ですがそれは陸での事。船はまた状況が違ってきます」 「すみません、具体的にはどのように違うのでしょうか?」  当然のことながら上がる質問にウルバスが頷く。そして地図の上に船の断面図を置いた。 「積める物資が限られるのが大きいかな。船は積載量があってね、それを超えると沈むリスクが高くなる。もっと言えば左右前後の荷が偏る事すらもリスクなんだ。その中で優先されるのはやっぱり食料。次に砲弾や、破損時の応急処置用の資材。医療物資が積める量は限られてくる」 「更に言えば船は案外揺れますし、有事の際の怪我人を悠長に運んで治療なんてできません。その場でサッと縫ったり焼いたりして出血を止める事が最優先となります」 「焼く!」  それにほぼ全員がどよめいた。それというのも陸での治療で傷を真っ先に焼く事はしていない。傷が小さければ止血をして医療府へ。少し大きければ数針縫うこともある。焼けば傷は歪に残り、かつ完全に止血できるかと言えばそうでもない。  だがオリヴァーは真剣な目で頷いた。 「抗菌剤、麻酔、血圧の薬、輸血キット。地上では陸路で運ぶのでこれらが準備出来ていれば使用可能です。ですが船はそうはいかない。積める数が限られている中で優先すべき薬を選んだら、諦めなければいけないものも出てきます」 「場所も船の中だけ。敵に乗り込まれた場合、制圧までにかかる時間は陸よりずっと早い。その中で悠長に縫合はできないからね。焼いて、薬を塗って傷を締めるくらいしかできないんだ」  それを聞いてクリフは不安になった。そんな場所に恋人ピアースはいる。王都に来て傷が増えたと思ったけれど、こういう事情もあったんじゃないか。そんな気がする。 「今回は訓練だから戦う時の様な状況にはならないと思うけれど、日常的にも怪我は多い。船が予想以上に揺れてぶつけるとか、ロープ捌きをしくじって絡められて骨を折るとか」 「海上で剣の訓練も多少しますから、その際の傷もあります。しかも真水は貴重なので簡単には使えません。傷を洗う事もサッとしなければいけないのです」  皆が不安そうに顔を見合わせている。だが、そんな状況に置かれているにもかかわらず今まで船医なしで乗り越えてきた第三を思うと逃げる事はできない。 「予定は海上で十日。その間に近くの港に寄って物資の補強をしたりもする。ジェームダルにも協力を要請して、快諾してもらった。今回外海には出ないけれど、その寸前までは行こうと思っているから」 「全員、出港までにまた違った勉強会を行いますからね」 「はい!」  上官二名の言葉に、クリフを含む第四の面々は素直に同意の声を上げたのだった。
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