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どこか獲物を求めているかのようにも見える彼の鋭い瞳が、視界の中で異変の兆候を捉える。
(――ん。何だ、あれは……)
広場の中で通行を阻む程になり始めている人だかりの形成を見つけ、ヴィクトルは訝しんだ。
広場の端から、中央の噴水池に沿って丸く並んだ露店の前へと入っていく。
片側の店先には珍しい生地の布や祭用の煌びやかな仮面が並び、遠く南方から運んだ果実が甘い匂いを放つ。
それらに目もくれず、彼は広場の反対側の外れ、軒を作らず地面に布を広げて商売している行商達の並びに足を向けた。
その一角、溢れんばかりの人混みが集まっている場所に身体を滑り込ませていく。
――人々の関心の先にいたのは、石畳の上に広げた天鵞絨の布の上で、珍しい舶来のブローチやペンダントを売っている流しの商人だった。
「本当に素敵だわ。これ、本当にこの値段なの?」
「勿論。とてもお似合いですよ、お嬢さん」
頭から大きな白いローブを被り、ツノの生えた神の仮面で顔の上半分を隠した物売りの男が優しげな声で客に声を掛ける。相手は五十もとっくに超えているであろう婦人だが、何故か嫌味に聞こえなかった。
店主はどこか商人らしからぬ風情で、地毛なのかカツラなのか、ローブから出た長く美しい白髪を宝石を散りばめた革紐で編み込み、座り込んでいる布の上にまで垂らしている。
仮面の下の整った鼻筋と美しい形の唇はまるで女のようだが、その声は明らかに男。艶やかでシミひとつ無い白い肌からすると、歳は二十を過ぎたくらいだろうか。
目の前のふくよかな婦人はあからさまなお世辞にも顔を真っ赤にして喜び、血のように赤い石を付けた美しいペンダントの代金を男に渡している。
布の上に置かれた値段に目を落とすと、子供の玩具とさほど変わらないような値段だ。
しかし売られている品はどれも精巧な作りで、使われている石もまるで本物のように見える。
「お買い上げありがとうございます。神々の祝祭日に幸があらんことを」
仮面の男はニッコリと笑み、鷹揚に手を振って婦人を見送った。
その後も次々と買い手が付くが、男が余りにも丁寧にゆっくりと接客をしているので、集まる客が引きも切らない。
(商売に慣れてねぇ、っていうよりも完全に素人だな……こいつは明らかに怪しいぞ)
犯罪の臭いを確信し、ヴィクトルは更に人垣をかき分けて男の真正面に割って入った。
「――神殿騎士団の査察だ。通してくれ」
集まった客がしぶしぶと引く。
男の真正面に出て屈み、ヴィクトルは言い放った。
「失礼だが、商品を改めさせて貰う」
正面から睨みつけると、仮面の奥の美しい紫の瞳がじっとこちらを見つめ返してくる。
「――ああ、構わない」
好意のようなものすら感じるその態度に違和感を感じながら、ブローチの一つを手に取った。
美しい緑色の石をはめ込んだ、王冠を模った金色のもので、持ち上げるとずっしりとした重みがある。
(本物の金……!? いや、まさか――)
頭上から降る太陽の光に照らし、石の中を見た。
南国の海のように美しい緑色の中に、無数の引っかき傷のような天然の内包物がある。
ここに来る前に山賊をやっていた時に本物のエメラルドを見た事があったが、それと同じだ。
(何考えてんだ、こいつ……)
売っているものの値段は安いので、詐欺師ではない。むしろとんだ慈善家だが、その裏には何か企みがあるとしか思えない。
(――盗品隠し……)
脳裏にいつか聞いたことのある悪質な盗賊の手口が思い浮かぶ。
貴族の宝物など足が付き易そうな物を盗んだ際、農村に出向いてその価値が分かりそうにない農夫などに一旦安く売り捌き、ほとぼりが冷めた後で盗みに入って取り戻す、そんな手口があると聞いた事がある。
買った人間は口封じのために大抵惨殺されるという――。
「宜しければ、そのブローチを差し上げたい。あなたの美しい肌の色にきっと合う」
仮面の男の紫の瞳が妖しく光る。
(口止め料をはずむから、黙っておけという事か)
ヴィクトルはブローチを天鵞絨の上に放り投げ、代わりにその手で男の全身を覆う白いローブを掴んだ。
「あいにく、俺は賄賂は受け取らねぇ主義でな」
指に力を込め、一気に引くように布を剥ぎ取る。
「……!」
露わになった男の意外な程煌びやかな身なりに、ヴィクトルは心中で密かに驚いた。
上等な絹のシャツの上に細かい刺繍を施した緋色の薄い上衣を羽織り、細身の優雅なキュロットを穿いたその姿は、流浪の民というより貴族の若者にしか見えない。
前髪を作っていない白い豊かな髪の生え際を見ると、確かにその地肌から直接生えていてカツラでもないようだった。
(……商人風情がこの扮装……)
戸惑いながらもヴィクトルは男を睨み付け、唇を開いた。
「神殿まで同行して貰うが、いいか」
「構わない」
相手は特に抵抗することもなく、膝を伸ばしてその場で立ち上がった。
(――っ、でけぇな)
その背の高さに、一瞬ギョッとする。
自分もかなり体格に恵まれているが、この男はそれ以上だ。
優しげな雰囲気の男なのに、何故だか分からないが、恐ろしい程の威圧感を感じる。
(こいつやっぱり、絶対只者じゃねえ。名のある犯罪者か何かか――)
「――仮面を取れ」
ヴィクトルは自分も立ち上がり、男の顔を正面から睨みつけた。
「……私の顔が見たいか……?」
男の青白い手の甲がゆっくりと上がる。
その肌の色をどこかで見た事がある気がした。
――アビゴール・カイン……。
彼にとって不吉な神の名前が脳裏に浮かぶ。
「いや、待て。神殿までそのままでいい」
嫌な予感がして仮面に指を掛けた男の腕を掴んで止めた瞬間、手の平に小動物に噛まれたかのような鋭い痛みが走った。
「!?」
すぐに男に触れていた手を離すが、痛みのあった部分から奇妙な鼓動のような感覚が拡がっていく。
「何しやがった、畜生……っ」
仮面の奥の紫の瞳が微笑み、男の背後の景色が歪んだ。
(まずい……はめられた……か……)
力強い腕に腰を支えるように抱きとめられながら、ヴィクトルは一瞬で気を失った。
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