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「研究室で会う約束してたのに、外来に来いって、医者って本当に……」  ぶつぶつ言いながら、前橋いつきは大学病院の構内を、重い資料が入ったバックを肩からさげて歩いていた。緑の木々の中に点在する白い建物を、縫うように登り坂が続く。青空が抜けるようで、夏の終わりを告げていた。  いつきは、会社、アカツキ製薬の仕事で、先生から資料を受け取りに大学病院に来ていた。勤務時間中の外出は久しぶりだ。  人気のない病棟の裏にさしかかった時、建物の非常階段を男が登っているのに気づき、足を止めた。階段の入口には鎖が張られ、部外者立入禁止の表示板が下がっている。  男は一番上の三階まで登りきり、それ以上登れないのを確認するように空を見上げた。そして階段の手すりに手をかけて、乗り越えようとした。 「わー、危なーい! 何してんの!」  叫びながら、いつきは非常階段に駆けだした。男はいつきに気づき、手すりを乗り越えるのは止めたが、そのままの姿勢で動かない。いつきは鎖をくぐり、階段を駆け上がり、男を下まで引きずりおろした。 「何……はあはあ、ゼイゼイ」  何やってるんですか。息が上がったいつきは声が出ない。脇腹が痛い。手で押さえながら見ると、男は視線が一点に固まり、焦点が目の前のいつきに合っていない。土気色の頬がこけている。四十歳くらいだろうか。 「手すり越えたら……落ちちゃいますよ」 「それでもよかったのに、なぜ邪魔するんだ」  男の声は小さくて聞こえづらかった。 「死ぬ気ですか」 「ただ澄んだ青空がきれいで、そこに近づけば、自分が溶けてなくなってしまいそうな気がして……」 「わかります」  ただ消えてしまいたい。中学二年の頃いじめられていた、いつきは毎日そう思っていた。苦しまずにただ消えることができたら、どんなに楽だろう。
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