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「やれやれ今日は疲れたわ」
家に着いた嘉代子は血のついた衣服を着替えたあと、さきほどまで新城と膝を突き合わせていたダイニングテーブルの椅子に座り、ひと息ついた。
嘉代子があの場所で人間を殺したのは今日で4度目だ。1度目は10年前、2度目は5年前、3度目は3年前。いずれも新城のように、この森を開拓したいから買い取らせてくれ、と言いにきた人間だった。2度目のときは警察が殺した人間の写真を持って聞き込みにきたが、「そんな人は知らない、見たこともないわ」と白を切ると簡単に去っていった。森でひっそりと暮らす人の良さそうな老女は容疑者候補からまっさきに外されたのだろう。
嘉代子はここに棲み始めてから15年間、この森を守り続けてきた。
昔、嘉代子の父はインフラ会社の技術者だった。彼は山を切り崩して新幹線のトンネルを建設する計画に携わっていたのだが、完成を待たずに崩落事故に巻き込まれて亡くなった。これが20年前の出来事だ。そしてその4年後には嘉代子の夫が亡くなった。彼は不動産会社の土地開発部の重役で、開拓後に分譲予定の森を視察していたときに崖から転落して命を落とした。
尊敬する父と愛する夫、相次いで2人を亡くした嘉代子は悲しみに暮れた。途方もない喪失感に身を引き裂かれるような思いがし、心が壊れていくのを感じた。そんな中、嘉代子は2人の死の理由について考えた。この不運の連続を説明できるなにかがほしかった。こうしてしばらく考え続けた結果、嘉代子はある結論にいきついた。
父と夫は「開拓者」ゆえに死んだんだ。
そう考えるとひどく腑に落ち、悲しみが薄れゆくような感じがした。彼らは開拓に関わってきたから死んだのだ。トンネル建設と森の分譲、これでいったい自然界の生命はいくつ失われたのか。彼らは自らの死により代償を払ったのだ。そう考えると彼らの死を納得して受け入れることができた。しかし、同時に嘉代子は思い悩んだ。彼らが開拓により得た金で生きてきた自分も同罪ではないのか? 自分はなんの代償も払わなくていいのだろうか? 嘉代子は壊れたままの心でしばらく悩んだあと、この先の人生を自然の守護に捧げることを決意した。とはいえ嘉代子はそれまで専業主婦だったので、あまり大それたことはできない。しかし幸い、嘉代子には父が遺した森があった。その森を守りぬくことなら自分にもできそうだ、と嘉代子は考え、それによって自然への代償を払っていくと決めたのだ。だから侵略者は1人残らず殺して埋める。これまでもそうしてきたし、今日も例に違わずそうしたし、これからも身体が動く限りはそうするつもりだ。
嘉代子はダイニングテーブルについたまま、ふと床に視線を落とした。すると1匹のシデムシが這っているのを見つけた。さきほど食器棚の下に消えていった個体だろう。嘉代子はその黒い虫を右手でやさしく包み、食事処までつれていってやることにした。
「今日はいい死肉があるよ」
嘉代子は手の中のシデムシに声をかけた。嘉代子は森に棲む生き物を大切にしている。無駄な殺生はしない。自益のために森を破壊したりもしない。自然を慈しみ、生命を尊び、美しい森を守っている。そんな笹原嘉代子は時折人を殺しはしても、おおむね善い人間であると言えるのだ……と、嘉代子自身は確信している。
(了)
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