始まりは、孤月浮かぶ夜

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 空を見上げると、ぽっかりと月が浮かんでいた。  少し欠けているけれど、雲もなく晴れ渡った夜空からは、明るい光が降り注いでいる。  綺麗だ。でも、寂しい。  私には、今日の月が途轍もなく寂しく、孤独に見えた。  こういうの、なんて言うんだっけ……。 「孤月(こげつ)だ」  昔、何かの本で見かけた。寂しいけれど、綺麗な言葉だなと思って印象に残っていた。  私は時折空を見上げながら、あてもなく歩いていた。  駅に近付いているはずだけど、ここは都市部からかなり離れているものだから、夜になると人通りが途絶える。電車の本数も少なく、終電も早い。店や住宅の明かりはまだあるけれど、静かなものだ。  寒い。  早く家に帰って、お風呂に入って、温かいものでも飲んで、ふかふかの布団にくるまれば。そうすれば寒さは凌げるし、気持ちも少しはマシになるはず。  わかっているのに、私はどうしてだか、このまま真っ直ぐ家に帰りたくはなかった。 「……ぁ」 「え?」  小さな声がしたような気がして、思わず立ち止まり、辺りをきょろきょろと見渡す。 「な……ぁ」  また声がした。  さっきよりはっきりと聞こえる。私はその声を頼りに、あちこちを探し回る。すると、細い路地を少し入ったところに、光るものを見つけた。 「なーぁ」  光る双眸がこちらを見つめている。私はそれにゆっくりと近づいた。  逃げられちゃうかな?  できるだけ音を立てないように慎重に近づいていくと、向こうも私に向かって歩み寄ってきた。 「にゃ……」  彼か彼女かはわからないけれど、その子は私を見上げ、小さく鳴いた。屈んだ私の足元にすり寄ってきて、身体を擦りつけてくる。 「触ってもいい?」 「なぁ」  いいよ、と返事をするように、また鳴いた。  私はそろりと手を伸ばし、その子の額から頭をできるだけ優しく撫でる。 「なーぁ」  気持ちよさそうに目を閉じるその子を見て、胸がきゅんと高鳴った。  どうせ誰も見ていない。  私がその場に座り込むと、それを待っていたかのように、その子は私の膝に飛び乗り、そこに収まった。 「あなた、飼い猫ちゃんなんだ? 赤い首輪、似合ってるね」 「なぁ~」 「黒い毛が艶々してて綺麗。ご主人様に可愛がられているのね」 「……」 「あぁ、違うの? そっか、猫ちゃんの場合、ご主人様じゃなくて下僕かな?」 「にゃ」  黒猫の鳴くタイミングが受け答えのように絶妙なタイミングで、思わずふきだしてしまった。頭のいい子なのか、まるで会話しているようだ。  私は艶やかな毛並みに沿うように撫でながら、独り言を呟き始める。  慰めも励ましもいらない。でも、誰かに聞いてほしい。  寂しくて、ちょっぴり悲しくて、とても惨めな私の気持ちを。 「十年以上付き合った人にね、裏切られちゃった」 「なぁ」 「二股かけられてたの。ん? 二股なのかな? ま、どうでもいいけど」 「な?」 「家政婦さんみたいにいいように使われてさ。いつの間にか、彼の愛情なんて私になかったことに、気付かなかったの。……ううん、気付かない振りをしてたのかな」 「なーぁ」 「本命らしき女の人が乗り込んできてさ、わーわー叫ぶの。出て行けって、彼に近づくなって。あ、泥棒猫とも言われたなぁ。泥棒猫なんて、今どき言う人いるんだね……」 「にゃ?」 「猫ちゃんに失礼だよね」 「なぁ」  黒猫が、撫でていない方の私の手の甲をぺろりと舐めた。 「なーぁ」  ホント、失礼よね! なんて言いたげな目を私に向けた後、また舐め続ける。  ざらざらとした舌が少しくすぐったい。  気が済んだのか、舐めるのをやめた後は、くるりと丸くなる。黒猫の身体は、すでに私のお腹のあたりにまで近づいていた。 「あったかい……」  黒猫の体温が伝わってきて、とても温かい。 「な……ぁ」  眠そうに欠伸をしたかと思うと、きゅっと目を閉じた。 「こんなところで寝る?」 「……」  すっかり心を許してくれたのか、安心して眠る黒猫。  私は思わず抱きしめる。  起こさないようにそぉっと。でも、ぎゅっと。 「……帰りたくない」 「でも、風邪をひいちゃいますよ」
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