89人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
空を見上げると、ぽっかりと月が浮かんでいた。
少し欠けているけれど、雲もなく晴れ渡った夜空からは、明るい光が降り注いでいる。
綺麗だ。でも、寂しい。
私には、今日の月が途轍もなく寂しく、孤独に見えた。
こういうの、なんて言うんだっけ……。
「孤月だ」
昔、何かの本で見かけた。寂しいけれど、綺麗な言葉だなと思って印象に残っていた。
私は時折空を見上げながら、あてもなく歩いていた。
駅に近付いているはずだけど、ここは都市部からかなり離れているものだから、夜になると人通りが途絶える。電車の本数も少なく、終電も早い。店や住宅の明かりはまだあるけれど、静かなものだ。
寒い。
早く家に帰って、お風呂に入って、温かいものでも飲んで、ふかふかの布団にくるまれば。そうすれば寒さは凌げるし、気持ちも少しはマシになるはず。
わかっているのに、私はどうしてだか、このまま真っ直ぐ家に帰りたくはなかった。
「……ぁ」
「え?」
小さな声がしたような気がして、思わず立ち止まり、辺りをきょろきょろと見渡す。
「な……ぁ」
また声がした。
さっきよりはっきりと聞こえる。私はその声を頼りに、あちこちを探し回る。すると、細い路地を少し入ったところに、光るものを見つけた。
「なーぁ」
光る双眸がこちらを見つめている。私はそれにゆっくりと近づいた。
逃げられちゃうかな?
できるだけ音を立てないように慎重に近づいていくと、向こうも私に向かって歩み寄ってきた。
「にゃ……」
彼か彼女かはわからないけれど、その子は私を見上げ、小さく鳴いた。屈んだ私の足元にすり寄ってきて、身体を擦りつけてくる。
「触ってもいい?」
「なぁ」
いいよ、と返事をするように、また鳴いた。
私はそろりと手を伸ばし、その子の額から頭をできるだけ優しく撫でる。
「なーぁ」
気持ちよさそうに目を閉じるその子を見て、胸がきゅんと高鳴った。
どうせ誰も見ていない。
私がその場に座り込むと、それを待っていたかのように、その子は私の膝に飛び乗り、そこに収まった。
「あなた、飼い猫ちゃんなんだ? 赤い首輪、似合ってるね」
「なぁ~」
「黒い毛が艶々してて綺麗。ご主人様に可愛がられているのね」
「……」
「あぁ、違うの? そっか、猫ちゃんの場合、ご主人様じゃなくて下僕かな?」
「にゃ」
黒猫の鳴くタイミングが受け答えのように絶妙なタイミングで、思わずふきだしてしまった。頭のいい子なのか、まるで会話しているようだ。
私は艶やかな毛並みに沿うように撫でながら、独り言を呟き始める。
慰めも励ましもいらない。でも、誰かに聞いてほしい。
寂しくて、ちょっぴり悲しくて、とても惨めな私の気持ちを。
「十年以上付き合った人にね、裏切られちゃった」
「なぁ」
「二股かけられてたの。ん? 二股なのかな? ま、どうでもいいけど」
「な?」
「家政婦さんみたいにいいように使われてさ。いつの間にか、彼の愛情なんて私になかったことに、気付かなかったの。……ううん、気付かない振りをしてたのかな」
「なーぁ」
「本命らしき女の人が乗り込んできてさ、わーわー叫ぶの。出て行けって、彼に近づくなって。あ、泥棒猫とも言われたなぁ。泥棒猫なんて、今どき言う人いるんだね……」
「にゃ?」
「猫ちゃんに失礼だよね」
「なぁ」
黒猫が、撫でていない方の私の手の甲をぺろりと舐めた。
「なーぁ」
ホント、失礼よね! なんて言いたげな目を私に向けた後、また舐め続ける。
ざらざらとした舌が少しくすぐったい。
気が済んだのか、舐めるのをやめた後は、くるりと丸くなる。黒猫の身体は、すでに私のお腹のあたりにまで近づいていた。
「あったかい……」
黒猫の体温が伝わってきて、とても温かい。
「な……ぁ」
眠そうに欠伸をしたかと思うと、きゅっと目を閉じた。
「こんなところで寝る?」
「……」
すっかり心を許してくれたのか、安心して眠る黒猫。
私は思わず抱きしめる。
起こさないようにそぉっと。でも、ぎゅっと。
「……帰りたくない」
「でも、風邪をひいちゃいますよ」
最初のコメントを投稿しよう!