3・吾妻の夏

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3・吾妻の夏

   宝永六年(1709)5月、6代将軍として家宣が就任。  翌月には、あれほどの権力を誇った柳沢吉保が職を辞して隠居をし、表舞台から去った。   6月には、吾妻藩主・一色(いっしき)綱堅(つなかた)は江戸在勤を終え、国許へと帰って来た。江戸で生まれ育った綱堅にとっては、これが初めての国入りであった。    若き藩主の国入りに、貧しい足軽長屋も浮き立っていた。この吾妻は、夏の今が最も人間に優しい。緑は目映く、かと言って同じ時期の江戸の様な酷暑とは無縁で、心地よい風が田園の苗を撫でていき、山々が美しい姿で見る者の心を癒すのだ。  足軽・吉川(よしかわ)家では、10歳になる長男・主碼(しゅめ)が、16歳の姉・紀和(きわ)に教えられながら、小太刀の稽古をしていた。この長屋では評判の、美しい姉弟である。身なりは野良着同然だが、貧しくとも学を志し武を尊ぶ家風の中で育った姉弟には、凛とした輝きがあった。 「主碼は筋が良い」 「いえ、まだまだ姉上のようにはいきませぬ。私は必ず、母上と姉上を守れるような藩士にならねばなりませぬ」 「その意気や良し。勉学も、手を抜いてはならぬぞ」 「はい、姉上」  彼らの父・吉川官七郎(かんしちろう)は、吾同館(あどうかん)と呼ばれる藩校では助教(じょきょう)を勤め、藩道場では師範代を勤める程の逸材である。だが、浅間山の噴火で領内の復興に費用がかさみ、藩財政は逼迫。この惨状を幕府に訴え、吾妻藩では此度の参勤後、向こう2年の参勤交代の免除を取り付けている程である。当然、手当が増える筈が無く、病弱の妻と二人の子供を抱えるその日暮らしといった有り様であった。せめてもの財産はこの身の文武だと、官七郎は男女の別なく、二人の子供が幼いうちから学問と剣術とを厳しく仕込んでいたのであった。だが、その官七郎は半年前に病であっけなく他界した。本来はたとえ幼くとも主碼が家督を継いで然るべきである。だが、官七郎の弟が強引に家督を奪ってしまった。軽輩とは言え一家の当主になる筈だった主碼は、一転して部屋住の厄介者扱いを受ける身となったのであった。  しかし紀和は、病弱の母と幼い弟の暮らしの為に働きつつも稽古に励み、その甲斐あって道場の推挙を得、結城藩水野家との婚儀に伴って新設された奥向きで藩主家族を護衛する別式女(べっしきめ)として、来年から江戸の上屋敷に上がる事が決まっていた。まずは見習いとして城に上がり、国入をする藩主に挨拶を成し、作法などを厳しく学んでから江戸へ発つ手筈となっている。 「お城に上がれば、決まったお手当を頂戴する事が出来る。そうしたら、お前に似合いの刀を誂えてやりましよう」  女子と良く間違われる可憐な弟の、しかしながら父の跡を継ぐべく必死に稽古に打ち込むその横顔を、紀和は目を細めて見つめていた。さぞ、心映えも美しい青年藩士に育つであろうと、弟に期待を寄せてもいた。自分が別式女となってお城で出世をしたなら、弟が成人する頃には、こんな貧乏長屋を出て立派な屋敷を構えられる身分にもなれよう、と。  いや、花の精のように可憐な弟に、このような泥水の上澄みをすするような人生は似合わない、させてはならないのだ。 「励むのです、主碼」  城へ上がるその日、悲壮な覚悟に象られた双眸で、紀和は見送る主碼にそう言い残し、背を向けたのであった。病の母は、もう体を起こして見送る事も出来ない。馬小屋以下のみすぼらしい小屋に、母の咽ぶ声が響いた。 「姉上」  主碼が思わず追いかけようとして戸口から駆け出した時であった。  グラリと、足下が揺れた。  轟と音を立てて、地面が揺れ始めたのだ。 「うわぁっ」  小さい主碼は、いとも簡単に地面から弾き飛ばされ、井戸端に転がり着いた。身を縮めて顔を両腕で覆いながらも、その隙間から、目の前のボロ小屋があっけなく崩れていくのが見えた。母がいる、母がいる! だが、幼い主碼は余りの情景に声も出せず、ただ縮こまっている事しか出来ない。  浅間山から噴煙が上がったのだった。噴火という程の大規模なものではなかったが、その直前に起きた地震は、ただでさえ脆くなっていた城下外れの下級武士達の長屋を直撃したのだった。この辺りの世帯は、日々の生活にも事欠き、家の修繕どころでは無い。あの大噴火から数年を経ても、復興はまだ半ばであり、事にこのような下士の暮らしは捨て置かれたままになっていた。賑わいを取り戻しつつある城下と、本当に同じ藩の人間が住んでいるのかと訝しむほどの、およそ武士の暮らしとは言い難い住居の集まりであった。  ゆえに、一瞬のうちに、まるで積み木が崩れるかの様にして長屋ごと崩壊したのであった。  しかも主碼ら三人に宛てがわれていたのは、家督を強奪した叔父家族が住む長屋とは別棟の、家畜もかくやとばかりの物置小屋であっただけに、崩れるのは長屋の建物より早かった。 「は、母上……」  揺れが収まってから暫くして、主碼は恐る恐る小屋に近付いた。以前から腐っていた壁板が粉々になって散らばっている。 「主碼! 」 「姉上、母上が、母上が! 」 「お下がり! 」  すると、長屋を出た筈の紀和が、土埃に塗れた姿で駆け寄ってくるなり、主馬を押し退け、その板きれを狂った様に取り除き始めた。主碼も、小さい手で、必死に板きれを掻き分けた。 「母上……」  だが、その下には、痩せ衰えた母の事切(ことき)れた姿があったのだった。
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