#4 距離を縮めて

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「来た早々悪いが、そこのビール、バックヤードに運んどいてくれないかな」 出入口の脇に置かれた瓶ビールが入ったケースを顎で示す。笑顔で頼むことがいきなりの力仕事だ、絡む男性客から守ってくれるなど女性としても扱ってくれるが、こういう時は男性扱いだなと苦笑しながらもむしろ居心地はよく、大学入学時から転職の希望も起きずに働き続けていた。 天音は電車を乗り継ぎ中野の自宅に帰る。 玄関脇に飛び出した部屋がレッスンルームである、大きな窓から玄関が見えるのでレッスン中でも天音の行き帰りが分かるようになっていた。カーテンが引かれたその部屋の窓は今は暗い、レッスンがないのだと分かる。 玄関を開けると、天音は大きな声で「ただいま」と挨拶をした。 「お帰り、天音」 父の声がリビングからする、覗き込めば父は楽譜片手に室内に流れる音楽を聴いていた。 「今日は遅かったね」 思わず口に出てしまった。あまりがんじがらめな規律を作るつもりはないが、ただでさえ遠い大学へ通わせるのに不安があった、都内にいくらでも大学はあるのになぜ神奈川の大学を選んだのか、せめて早く帰ってきて欲しいとの願いからだ。バイト禁止は高校時代からだ、一人娘が欲しがるなら常識の範囲内ならいくらでもお小遣いはやるつもりだった。 ずっと父と娘でやってきた、天音もそれを理解し大学入学後も土日など講義がない日は家にいることも多く、友人たちと出かけても日が暮れる前には帰ってきていたのに。 「えへへ、ごめん、先輩んちに寄り道しちゃった」 天音は上機嫌に答えた、電車の中でも変に顔がにやけてしまうのは悠希に抱き締められた余韻だ。 「前に話した、ユキさんって人」 「ああ」 天音はスマホのカメラに写り込んだユキの姿は見せていた、もちろん本性は明かせない、『仲が良い先輩』とだけ告げていた。 「大学の近くに住んでるっていうから、押しかけちゃった」 いつかユキが実は『西沢悠希』で、この頃は男性だったなどと話すことがあったら父の心臓は止まってしまうのではと思ったが、全てを隠してまで嘘はつけなかったのだ。
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