第一次上田合戦

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第一次上田合戦

血の匂いが漂っている。 辺りに転がる多くの死体は、みな武器を片手に甲冑を纏っていた。 その中でただ一人、武器を持たずその場に座り込む少女の姿があった。 ——私もここで死んでしまうのかな。 イナは両膝を抱え込み、顔を埋めながら呟いた。 彼女は徳川家康の家臣・本多忠勝の娘だった。 徳川四天王に数えられ、戦場では負け知らずの猛将とも言われる忠勝を父に持つイナだが、 彼女は父とは似ても似つかず、人と争うことが苦手で、気弱な性格をしていた。 イナが内向的なまま成長していくことを懸念した忠勝は、 彼女に幼い頃から木刀を握らせ、心身ともに強い娘に育てようと考えた。 もともと男子であれ女子であれ、最初に生まれた子には 自分の武術すべてを仕込むことを決めていた忠勝の厳しい稽古に イナはついて行くことができず、父の期待に応えられないまま幼少期を過ごした。 いつまで経っても強くならないイナに痺れを切らした忠勝は、 イナが十代半ばになった頃、彼女を合戦場に連れて行くことを決める。 戦場で命懸けで戦う勇敢な父の姿をその目に焼き付けさせることで イナに、自分も強くなりたいという自我を芽生えさせようと考えてのことだった。 とはいえ実戦経験のないイナを、自分と同じ前線に連れて行くことはできない。 何より大切な娘が討ち死にするようなことがあってはならないとも忠勝は考えていたため、 イナは本多家の陣中から父の戦う姿を遠目で見学することとなった。 だが、イナの護衛を頼まれていた家臣が用を足すため陣を離れた僅かな隙をつき、 敵兵が陣に忍び込み、イナを無理やり馬に乗せて拐ってしまった。 イナは、自分を誘拐したのが父と敵対する勢力の兵であり 自分を身代金や和睦の交渉を持ち掛けるための人質として利用するつもりであろうことは予想がついた。 父の側が戦に負ければ、最悪殺されるかもしれない—— そんな恐怖の中、敵兵の操る馬の上に乗せられ進んでいくイナだったが、 突然馬の動きがピタリと止まった。 それから間も無く、自分の前に座っていた敵兵が馬の上からドサリと崩れ落ちる。 矢で身体を射抜かれ、動かなくなった敵兵の姿を見たイナは、 自分を誘拐した男が死んだことを悟った。 恐る恐る、馬から降りたイナだったが 連れ去られてから随分と進んできたこともあり、 既に味方の陣がどの方角にあるのかすらも分からない場所まで来ていたため 自力で戻ることができない絶望感に襲われた。 イナはその場に座り込むと、頭上で響く銃声や、男達の叫び声を聞かないよう耳を塞いだ。 もう嫌だ。 こんな場所には居たくない。 だけど父上の元に帰っても、厳しい稽古の日々が待っているだけ。 ……このまま、ここで死んでしまった方が幸せなのかもしれない…… イナが耳を塞いだまま座り込んでいると、 やがて馬のいななきも、弓矢が飛んでいく音も聞こえなくなっていた。 顔を上げ、辺りを見渡せば 先程までとは打って変わって静かになった焼け野原には 戦死した兵達の身体が無惨に横たえていた。 ああ……。 私もいずれ、ここに居る人達と同じように 動かなくなって、冷たくなって、最後には土に還っていくのだろう……。 イナがそう考えた時、背後から一頭の馬が駆けてくる音が聞こえて来た。
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