秋のこと(橘side)

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秋のこと(橘side)

 橘は予想外の事の成り行きに戸惑う暇もないまま、緊張気味に車の助手席に座っていた。ちらりと隣を盗み見ると運転席でハンドルを握る西岡がいる。 (やっぱりかっこいい……)  新学期が始まってから意図的に西岡を避けていた橘は久しぶりにの西岡にドキドキし通しだった。押し込めていた西岡への気持ちが溢れそうになる。  夏休みに西岡に告白して振られた橘は西岡のことを忘れる……まではいかなくても、恋を思い出に昇華するために西岡と距離を置くことにしていた。そして何より親友の輝が「望を泣かすやつは許さない!」と激昂して橘が西岡と接触しないように見張っていたので橘は西岡に近寄ることができなかった。  橘は輝のことを頭に思い浮かべ、後々受けるであろうお叱りを覚悟する。それもこれも輝の橘に対する優しさからだとわかっているので甘んじてお叱りを受けるつもりだ。 (輝も達也も心配しているだろうな……)  親友二人のことを考えながら橘は西岡とドライブをすることになった経緯を思い返した。    フットサルの試合中に右足首を痛めた橘は、偶然居合わせた西岡に抱きかかえられながら保健室に運ばれていた。  しかし保健室に着く前に養護教諭の山本に会って事態は変わる。 「あらー、どうしたの? 怪我した?」 「フットサルの試合中に右足首を捻っちゃって……」 「あらあら、腫れちゃってるわねぇ。保健室いっても冷やすぐらいしかできないんだけど……今日もう授業はない?」 「ないです」 「じゃあ、このまま病院行きなさい」  えっ、と驚く橘を気にも留めず山本は「ご家族に来てもらう?」と話を進める。 「父も母も仕事で……」 「じゃあタクシーかな。それかどこかに手が開いてる先生がいればいいんだけど……」  山本はそう言うとスッ……と視線を西岡に向ける。釣られて橘も西岡に視線を向けた。  西岡は自分を見つめる二つの顔に苦笑いをしたあと「いいですよ」と承諾する。 「私が付き添います」  「助かるわ~! 今日は手が離せないのよ。じゃあ私の車使っていいから」  なんと保健室に行くはずが急遽西岡の運転で病院に行くことになってしまった。急な展開に驚く橘が口を挟む隙もなく西岡と山本の間でどんどん話は進んでいく。  しばらくすると話がまとまったのか、山本は「じゃあ私は車のキー取ってくるから」と足早に去ってしまった。 「一回下ろしても大丈夫か? 職員室に一瞬寄ってくるから少しここで待っててくれ」 「あっ、もう自分で歩けます!」  一気に色々なことが起きて呆けていた橘は今の状況を思い出し慌てて西岡の腕から降りようとするが、西岡はそんな橘を優しく制してゆっくり下ろしてくれる。 「立てるか?」 「はい、大丈夫です」  橘は恐る恐る右足を地面につけたが、腫れた足首がまだ痛む。しかし西岡にこれ以上心配をかけたくない一心で笑顔で立ってみせた。  西岡はそんな橘に視線だけで大丈夫か訪ねてくる。  橘はその視線にドキドキしながら静かにコクリとうなずいた。 「無理するなよ。じゃあすぐ戻る」  西岡は橘の頭をくしゃりと撫でてから急ぎ足で職員室へ向かった。  心臓に悪過ぎる……西岡の背中を見送った橘は赤い顔を両手で隠しながら深くため息をついた。久しぶりに接した西岡の破壊力に橘はダウン寸前だ。  今この調子でこの後大丈夫だろうか……と、橘は自分自身に対する不安を抱えながら二人の帰りをそわそわしながら待っていた。    しばらくすると西岡と山本が戻ってきたので三人で裏門にある駐車場へ向かった。山本の車は可愛らしい軽自動車で、運転席に乗り込む西岡は少し窮屈そうにしていた。そんな姿にも橘はときめいてしまう。  整形外科は学校から車で五分ほどの距離にあり、山本が事前に電話をしてくれていたおかげであまり待たずに診察を受けることができた。  腫れた右足首は捻挫と診断が下された。骨には異常はなかったが二週間ぐらいは固定しておいたほうがいいだろうということでギブスに松葉杖となった。  慣れない松葉杖に少しだけ苦戦しながら待合室に戻ると西岡が心配そうな顔で待っていた。 「大丈夫か?」 「捻挫で二週間固定でした!」  橘は照れながら「ちょっと大袈裟ですよね」と笑うが、西岡は眉間にシワを寄せながら橘の様子を見ている。 「捻挫を甘く見ないほうがいい。安静にしてちゃんと治すように」 「はい……そうします」  西岡は橘の言葉でやっと安心してくれたのか微かに笑顔をみせてくれた。  橘が会計を終えると二人は病院を後にする。  橘は自分で帰るつもりだったが西岡に家まで送ると言われ車に乗せられた。山本からも送るように言われていたらしく橘は二人の親切に甘えることにした。  そうして西岡との束の間のドライブが始まることとなった。    病院から橘の家までは車で二〇分ぐらいの距離だった。長いようで短い二〇分、狭い車内に二人っきりという状況に橘はずっとそわそわしていた。  西岡と何か会話をしようと話題を考えるが何も思い浮かばない。橘が頭を悩ませていると西岡が「最近どうだ?」と話を振ってきた。何について聞かれているかわからなかったので、橘は「元気にしてます」と曖昧に答える。 「最近は質問に来ないけど勉強は順調か?」 「あっ、はい、大丈夫だと思います。先生の授業わかりやすいから……」 「そうか……何かわからないことがあったらいつでも質問に来いよ」  橘は「はい」と返事をしたが、そこで会話が途切れてしまい、二人の間には暫し沈黙が流れた。 「もう危ないことはしてないな?」  少ししてから西岡が控えめに聞いてきた。橘は少し考えてから春休みのことを言っているのだと気づいた。 「はい、もう懲りました」 「そうか……」  橘の返事を聞いて、西岡は安心したような顔をしていた。あの日の過ちは橘にとっては黒歴史になりつつあったが、西岡が心配してくれていたらしいことに少し嬉しくなる。  また少しの沈黙のあと、西岡が今度は控えめに口を開いた。 「その……、伊織と連絡取ってるのか?」 「え?」 「伊織から聞いて……。どんなこと話すんだ?」 「伊織さん……」  西岡からの思わぬ質問に橘は言葉を詰まらせた。伊織と連絡を取っていることを本人から聞いたということは、二人は今でも会っているのだろうか。そのことに思い至った橘の胸がチクリと痛む。自分が初めて伊織に会ったとき、伊織は西岡とホテル街を歩いていた。ということは、今も西岡と伊織はそういう仲なのだろうか。  橘が黙っていることに西岡は怪訝そうな顔をしたあと、ハッと何かに気付き、気まずそうに弁明をした。 「あーっと、その……、誤解してるかもしれないけど、伊織とはたまたま店で会って飲んだだけだ。その時に橘と連絡取ってると聞いた」 「そう……なんですね」  思わず疑うような視線を向けてしまうが、西岡はその視線に気付き「本当だからな?」と言葉を重ねた。  西岡の様子を見る限り言っていることは嘘ではなさそうだった。自分に二人のことをとやかく言う権利はないが、内心でホッとする。  西岡はチラッと横目で橘の様子を確認すると、大丈夫そうだと判断したのか再び話しを続けた。 「で、伊織と何を話すんだ?」 「えっと、色々相談に乗ってもらったりしてます」 「相談……」  西岡は少し考えたあと、躊躇いがちに聞いてきた。 「その相談は、俺にするんじゃ駄目なのか?」 「えっ?」  何故そんなことを聞くのか、橘は戸惑いながら西岡を振り返る。 「駄目じゃないですけど……伊織さんと連絡取らない方がいいんですか?」 「いや……そういうわけじゃないが……」  西岡は言い淀んだあと、少し寂しそうに言葉を継いだ。 「俺じゃ相談相手にならないならいい」 「そんな事ないです! でも西岡先生の連絡先知らないし……学校ではちょっと……」  橘が伊織と話していたことは同性との恋愛についてだった。とはいえ西岡が伊織から何を聞いているのか分からないが、数回連絡を取り合ったぐらいだ。 「なるほど」  西岡はそう言うとそれ以上何も言わなくなってしまった。  西岡の考えがわからない。一体何だというのだろうか。  橘が困惑しているうちに車は橘の家の前に停まる。 「今日はありがとうございました」  橘が助手席でペコリと頭を下げると、運転席で西岡がポケットからスマホを取り出し何やら操作をしていた。  急な連絡でも来たのだろうか。橘は西岡の邪魔をしないように助手席から静かに降りようとしたが、「橘」と呼び止められた。橘がその声に振り返ると西岡からスマホを突きつけられた。驚いて橘が画面を見ると、そこには二次元コードが表示されている。 「これが俺のアカウントだから」  ん、と西岡は橘を無言で急かしてくる。橘が慌ててスマホを取り出しコードを読み込むと、西岡は満足した様子でスマホをしまった。 「じゃあ安静にしてちゃんと治すように」  そう言い残すと、西岡は車で去って行った。  これは一体どういうことなのだろうか。  まさか西岡が連絡先を教えてくれるなんて……。  橘は西岡のアカウントが追加されたメッセージアプリをしばらく呆然と眺めていた。    次の日に学校に行くと、輝と達也が心配そうに駆け寄ってきた。昨日の時点で怪我の状態は伝えていたけれど、二人は心配してくれていたらしい。橘が二人の優しさにお礼を言うと、輝が前のめりで西岡とは何もなかったか聞いてきた。橘は少し考えて親友の二人に昨日の話を聞いてもらうことにした。自分だけだと都合の良い方に考えてしまうい、変に期待してしまうことが怖かった。 「いや、未練タラタラ過ぎだろ!」 「未練じゃないと思うけど……」 「いーや未練だね。可愛い望がツレなくなって焦ったんだよ。達也もそう思うだろ?」  達也は「うーん」と考える素振りを見せてから口を開いた。 「西岡先生の気持ちはわからないけど、何か思うことでもあったんじゃない?」 「思うこと……」 「わかるけどね、望は可愛いから。でも望を悲しませたやつのことを俺は簡単には許さないけどね」  輝は腕を組んで憤慨を示しているが、童顔のせいかどこか微笑ましさがある。現に達也が口元を緩ませながら輝を見ていた。  二人の話を聞いて橘の中で期待が膨らんでいく。西岡に振られたときの胸の痛みだけが橘に警告をしていた。    スポーツ大会が終わり、文化祭準備に追われる内に文化祭当日がやってきた。  橘のクラスは文化祭の定番でもあるメイド&執事喫茶だ。女子は執事の格好、男子はメイドの格好で給餌をするタイプのもので、橘は元々裏方の予定だったが足の捻挫で裏方は難しいだろうと受付兼呼び込みをすることになっていた。 「なんで受付もメイド服……」  表に出るならお前も着ろとメイド服を着せられた橘は控室の鏡の前で不満を漏らす。しかし橘の気持ちに反してクラスメイトからは好評だった。特に女子は、メイド服が妙に似合う橘にやりがいを感じたらしく、薄化粧まで施された。 「まじに似合ってるよな。自然過ぎて逆に笑えないもん」  メイド服の橘の隣で裏方の格好をした輝が感心している。  似合わないから笑える、ということで男子のメイド選抜条件は逞しさだった。なのでメイド服が似合いそうな輝は裏方、逆に身長が高い達也はメイドの担当だった。 「それってスベってるってこと? それは嫌なんだけど」  橘は大きくため息をつくと、輝はいやいやと手を振って否定する。 「いや、スベってるわけじゃないけど、違和感がない」 「女の子に間違えられそう」  メイド服を来た達也が「可愛いよ」と褒めてくれるが、輝はその様子見てクスクスと楽しそうに笑った。 「達也はやばいけどな」 「そういえばこのメイド服、持って帰ってもいいって」 「持って帰ってどうするだ?」 「ん?」 「え……?」  達也がにっこりと微笑むと輝は危険を感じたのかジリジリと後ずさる。  相変わらず仲が良い二人を橘が眺めていると、クラスメイトが呼びに来たので三人は持ち場に移動することになった。  メイド&執事喫茶は客入りも良くとても賑わっていた。何人か橘を女の子と勘違いして声を駆けてくる男がいたが、橘が男と知ると皆一様に驚いていた。  思いがけず橘はこの状況を楽しんでいた。同性が好きな橘が同性から声をかけられるなんてことは今まで一度もなかった。相手の勘違いとはいえ声をかけられることの非日常感に密かに胸を弾ませていた。  しばらくすると自分のシフトが終わり交代のクラスメイトがやってきた。文化祭の期間は輝と達也の二人と過ごす予定だったが、今の時間だけ二人とシフトがずれているため橘は三〇分ぐらい一人で過ごすことになっていた。  ひとまず制服に着替えようと、橘は更衣室代わりになっている教室へ向かった。達也と輝も自分のシフトが終わったら更衣室に来るはずなので橘はそのまま更衣室で二人を待つことに決めた。椅子もあるので休憩も取れそうだ。  更衣室は一般参加の人が入れないエリアにある。ちょうど誰もいないタイミングだったらしく、辺りはとても静かだった。  橘は椅子に座るとグッと背伸びをした。座っていたとはいえ、ずっとお客さんの相手をしていたので体は疲れていた。  着替えをせずにのんびりと休憩を取っているとポケットに入れていたスマホがメッセージの着信を告げる。  輝かな?と、橘はスマホをポケットから取り出し画面をつけるが、届いていた通知を見て驚きの声と同時に思わず体を起こした。画面には西岡からの「今どこにいる?」というメッセージが映し出されている。  橘が慌てて今いる場所を返信すると、西岡から今から向かう連絡が届いた。 (なんだろう。先生は今日忙しいはずだよな……)  自分がメイド姿のままなことも忘れ、ソワソワしながら西岡を待っていると五分ほどして西岡が教室のドアを開けて入ってきた。 「おつかれ」 「お疲れさまです」  橘が立ち上がろうとすると西岡は片手で制した。 「メイドやってたのか?」 「本当は裏方だったんですけど、足の怪我で受付になったので」  西岡は「そうか……」というと近くの机に浅く腰を乗せる。  これから何を言われるのか橘は少し身構える。しかし西岡が続けた話はまた他愛もない話ものだった。 「クラスの方は順調か?」 「おかげさまでお客さんがたくさん来てくれて賑わってます」  西岡は「そうか、良かったな」というと視線を窓の外に向けた。 (もしかしてただ俺に会いに来てくれたのかな……)  西岡の突然の訪問を不思議に思っていたが、そうだったら嬉しいな、と少しの期待に胸が高鳴る。 「受付はどうだった?」 「楽しかったです」  先程まで自分が座っていた賑やかな受付を思い出して橘は自然と笑顔になった。西岡はそんな橘の様子を見て微かに眉をひそめたことを、このとき橘は気づかなかった。 「何か大変なことはなかったか?」 「いえ、特に……」  そう言いかけ、橘は女の子に間違えられたことをふと思い出した。 「実はお客さんに女の子に間違えられたんですよ。なんで一人だけメイド服なの? って。男だって言ったらみんな驚いてて面白かったなー」 「へぇ……」 「連絡先聞いてきた人もいたけど、あれもナンパに入るんですかね?」  橘は笑いながら話していたが、西岡は視線を少し俯けたまま話を聞いている。 「俺、ナンパなんて初めてだったからびっくりしました」 「……嬉しかったのか?」  西岡の声が冷たくて橘は「えっ」と驚いたが、西岡は橘に視線を向けずに言葉を継いだ。 「連絡先教えたのか?」  そう言ってちらりと橘を見た目が少し怒っているように見えて橘は愕然とした。 「いや、向こうも女の子と思って聞いてきてたので……」 「勘違いじゃなかったら教えてたのか?」  一瞬言われたことの意味が理解できなかった橘だけれど、理解してもすぐには言葉を返せなかった。西岡が何故そんなことを聞いてくるのかわからない。 「いや……」  戸惑う橘が言い淀むと西岡がムッとした顔をして更に続けた。 「お前、春休みのこと反省してないのか?」 「それとこれは関係なくないですか? 相手も高校生だし……」  どうして急に西岡の機嫌が悪くなったのだろうか。橘には理由が分からず、ひたすら困惑していた。そしてこのやり取りの何かに引っかかりを感じていた。 「高校生だけじゃなかっただろ」  西岡の言葉に橘は自分が感じた違和感の正体に気づいた。 「先生、見てたんですか?」  橘はこの話題をするように西岡に誘導された気が微かにしていた。それが西岡の一言で確信に変わる。 「見てない……見かけただけだ……」  西岡はバツが悪そうに答える。 「この話がしたくて先生はここに来たんですか?」  西岡は気まずそうにしながらやっと橘に顔を向けた。二人の視線が初めて交わる。 「お前が心配だったんだ」  そう言われても橘には何が心配なのかがわからない。  もしかして、と橘は自意識過剰かもしれないけれど思わずにはいられないことを口にした。 「……嫉妬ですか?」  まさかと思いながら西岡を見ると、西岡は顔を赤くしながら狼狽えていた。その様子に橘も思わず驚いてしまう。 「ちがう、そうじゃない」 「違うんですか?」 「心配したと言っただろ」 「それって俺の心配なんですか?」  橘の言葉に西岡は返す言葉が見つからない様子で目をそらした。  西岡が嫉妬をするなんて……と橘は驚いていたが、この間の連絡先を教えてくれたことも伊織への嫉妬だったりするのだろうか、という考えに行き当たった。  橘の中で驚きが徐々に喜びに変わっていく。 「もしかして俺のこと好きになってくれたんですか?」 「この話はもう終わりだ」  西岡は胸ポケットに手を伸ばすと、そこに何もない事に気づき小さく舌打ちをした。 「終わりじゃないです」 「駄目だ」 「俺はまだ先生のことが好きです」 「その話はしたくない」 「俺は聞きたいです」 「俺は教師でお前は生徒だろ」 「俺は平気です。先生が気にするなら卒業まで待ちます」 「そういうことじゃない」 「じゃあなんで……」  橘は諦めようとしてたのに、好きではないならどうして西岡は気を持たせるようなことをするのか。橘の中で喜びが一転して怒りと悲しみに変わっていく。 「今も駄目、卒業しても駄目。じゃあ好きじゃないって言って突き放してください。なんで構うんですか……」 「それは……」  なおも口籠る西岡に橘の中で張り詰めていたものがプツッと切れた。 「先生の意気地なし!」  橘は立ち上がると乱暴に松葉杖を付きながら教室の出口へと向かっていく。 「ちょっと待て」 「待ちません。はっきりしてくれない先生のことなんか俺はもう知りません」  扉を閉める前に橘は改めて西岡の顔を見た。大好きな顔が苦しそうに歪んでいる。しかし橘には西岡が何故そのような顔をするのかわかるはずもなかった。 「さよなら」  そう言い残し返事を待たずに扉を閉める。  教室を出たところで行くところもなく、仕方なくトボトボと歩いていたが、少ししてから着替えそびれていたことを思い出した。自分の格好を見てやるせなさが込み上げてくる。西岡が好きな気持が胸に滲みて、涙がポロポロとこぼれた。  気がつけば学校の屋上に来ていた。自分の心とは裏腹に心地よい秋晴れの空が広がっている。  橘は日陰になっているところを探してそこに腰を下ろした。遠くから文化祭のにぎやかな音が聞こえてくる。  西岡の気持ちがわからない。踏み込むと逃げてしまう西岡の本心はどこにあるのだろうか。もっとよく知りたくても、西岡の言う通り教師と生徒という関係である以上は難しいのかもしれない。  この恋を知るまでは、恋はキラキラして楽しいものだと思っていた。今は悲しくて苦しい……それでも西岡を好きじゃなくなることの方が難しかった。 「メイド服、褒めてもらいたかったな……」  橘の呟きは遠く澄み渡る空に溶けて消えていった。
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