前書き

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 昭和六十五年、一月。誠二と頼子は、名古屋市内のマンションから、市外のKニュータウンの一軒家に、引っ越しをして来た。念願の一戸建ての家だ。夫婦は浮付いた様子で、車から降り、我が家の目の前に立っている。頼子のお腹は、大きく膨らんでいた。  Kニュータウンは、巨大なベッドタウンとして作られた。皆高給取りばかりで、誠二もその一人だった。  誠二は名古屋駅近くの高層ビルの立ち並ぶ一角にある、株式会社で働いていた。対する頼子は、長年看護婦をしており、浜松の実家は裕福な家だった為、頼子の実家からの支援もあった事から、念願の一戸建てを立てる事が出来たのだ。  土地持ちも家持ち、誰もが憧れる生活が、いよいよ始まる。二人の胸は、躍るばかりだ。子供ももうすぐ産まれる。これからの日々が、楽しみで仕方なかった。  二人は車の中から手土産を沢山取り出すと、一軒一軒挨拶をしに回った。同じ様な若い夫婦が多く、子供も沢山居る。殆どの子供は、小学生ばかりだった。 「子供が皆大きいわ。仲良くなれるかしら?」  ふと頼子が不安を漏らすと、誠二は穏やかに返す。 「大丈夫だよ。子供が居るなら、子供好きって事だろう。僕等の子供の事も、可愛がってくれるさ。」 「だといいけど…。」  誠二に宥められるも、頼子はまだどこか不安だった。近所を二十軒ばかり回っただろうか。赤ん坊は二軒居たものの、妊婦は誰も居なかった。頼子を一層不安にさせる。 「同級生とか、居るのかしら?」 「広いんだ。幼稚園に入れば、沢山いるさ。」  誠二に言われ、頼子はじっと考える。 「そうね…。幼稚園に入れば、友達も出来るわよね…。」  自分に言い聞かせる様に呟くと、肩の力を抜く。 「今はとにかく、ゆっくりしたいわ。近所の挨拶回りがこんなに多いと、疲れちゃうわ。」 「ははは。それもそうだね。」  二人は残りの家への挨拶も終えると、我が家へと帰った。  念願の我が家には、子供部屋が二つある。子供は二人作る予定だった。広いリビングには、テレビも置いてあった。二階建ての贅沢な家。夢にまで見た、優雅な生活がここにはある。  自宅から最寄り駅までは、頼子が車で送り迎えをする事となるが、今は安静第一の為、バスで行く事となった。朝や夜は、通勤や通学をする人々で混雑している。バスだけではない。駅は北口と南口とあったが、どちらも通勤時間帯は、送り迎えの車で溢れかえっていた。  Kニュータウンは、車生活が欠かせない場所だった。何処へ行くにも、車でなくては遠く、坂道も多い所だ。だがその分、夜になれば家族の笑い声が響き、深夜は静かで、正にベッドタウンと言う名の通り、静かに眠って過ごせる町だ。 「そうだ、お義父さんとお義母さんを、正体しなくちゃね。」 「気を使わなくていいわよ。子供が産まれてからでいいわ。」 「それは…そうだけど…。」  誠二は頭を掻きむしる。家の資金を援助して貰ったのだから、やはり一番に招待すべきだと、考えている。だが頼子は、余り気にしない様にと、何度も言って来た。気にするなと言われても、やはり気になってしまうものだ。 「里帰り出産もしないんだろう?それなら、一度泊りにでも着て貰えばいいじゃないか。」  頼子は、出産は里帰りせずに、昔からKニュータウンにある産婦人科で、出産をする予定だった。出産後、すぐに新しい我が家で育てたかったのだ。 「私の我儘だもの。いいのよ、誠ちゃんは気にしなくて。」  誠二は軽く、ため息を吐く。頼子はどこか、頑固な所がある。その頑固さに、いつも誠二は負けている様な気がした。  頼子の出産予定日は、五月五日からの一週間後だ。後四か月後には、子供が産まれて来る。それまでに、新しい生活に慣れなくてはならない。  二人は車で、家の近所を見て回った。買い物はどこがいいか、薬局はどこにあるか、学校の雰囲気はどんな感じかと、見る所は沢山ある。忙しい週末となった。  週末が過ぎると、いつもの通勤の日々がやって来る。Kニュータウンに越してから、初めての出社だ。  誠二は朝食を済ませ、いそいそとバス停まで向かった。バス停には、既に沢山の人が並んでいる。出遅れたと思った誠二は、小走りでバス停へと向かった。列の最後尾に並ぶと、次に来るバスに乗り切れるかどうか、不安になってしまう。  バスが到着をすると、既に多くに人が乗っていた。ぎゅうぎゅう詰めになりながら、誠二もバスに乗り込む。体が体で圧し潰され、苦しい。まさか電車に乗る前から、この息苦しさを味わう事になるとは、思ってもみなかった。これは頼子に送り迎えをして貰わなければ…そう思っていると、ようやく駅へと到着をする。だが駅も又、通勤で多くの背広を着た人々で、溢れ返っていた。誠二はため息を吐いた。またか…と、心の中で漏らす。  電車は快速電車も止まる、活気だった駅だった。この駅発の電車もある。息苦しさを味わうが、早く到着をする電車か、快適だが、遅く到着をする電車か、どちらに乗るか迷う所だ。誠二は終点の名古屋駅まで乗る。乗車時間は長い。これは快適さを選んだ方が、懸命だろう。そう思った誠二は、一本電車を遅らせ、普通列車に乗った。既に何人かが乗り込み座席に座っていたが、まだ空席がある。誠二は座席に座ると、ほっと息を吐いた。暫くはこれが毎日続くのか…どこか憂鬱になってしまう。  ようやく会社へと着いた誠二だったが、既に疲れ切ってしまい、ぐったりとする。自分の椅子に座り、大きくため息を吐くと、その場で項垂れた。 「疲れた…。」  小さく零す様に呟くと、隣の席の同期の関口が、可笑しそうに笑った。 「新居からの初出勤、お疲れ様。」  何がそんなに可笑しいのか、よく分からず、腹が立った誠二は、少し怒り気味に返す。 「どうも。何笑ってんだよ。」 「いや、だって死体みたいな顔色してるから。」 「本当に?俺そんな顔色してる?」 「鏡で見てみろよ。」  そう言って、関口は更に笑った。  誠二は慌ててトイレへと行くと、洗面所の鏡で、自分の顔を見つめる。確かに、関口の言う通り、少し青白い。だからと言って、あんなに笑う事はないだろう。そう思いながら、誠二は冷たい水で、何度も顔を濯いだ。  ディスクへと戻ると、誠二は不機嫌そうに、関口に顔を見せる。 「どうだ?もう死体じゃないだろう。」  関口は、「はいはい。」と軽く流す。  同期の関口信二は、誠二と同じ名古屋市内に住んでいた。誠二がKニュータウンに越すと聞き、それは羨ましがっていた。  関口も、当初は住む予定だったが、土地の抽選に外れた為、住む事が出来なかったのだ。人気のある土地は、抽選制だった。そのせいか、誠二がKニュータウンに住む事が決まってから、やたらとからかって来る様になった。 「で?住み心地はどうよ?」  にやけ顔で関口が聞いてくると、誠二は少し、うんざりした様子で答える。 「とにかく挨拶回りが大変だったよ。住んでいる人達は皆いい人ばかりだけど、先輩面した人も中には居てね。おまけにバスは混みまくりだし。車さえあれば、欲しい物は大体揃うし、病院もあるし、学校も新しいから綺麗だしでいいんだけど…ネオンが恋しくなるね。」  半分愚痴の様な感想を言うと、関口は嬉しそうに笑った。 「はははっ‼そりゃいい‼まぁ、住めば都と言うし、そのうち慣れるさ。」  嬉しそうに笑う関口に腹を立てた誠二は、仏頂面で言い返した。 「でも、子育てには良い環境だ。治安もいいし、不良もいないし。」 「そうかそうか。ならいいじゃないか。」  関口はまだ可笑しそうに笑う。  暫く笑っていた関口だったが、ふと思い出したかのように、急に笑うのを止めた。 「あぁ、そうだ。お前、細見には行くなよ。」 「細見?」  突然の話に、誠二は不思議そうに首を傾げた。 「なんだそれ?町名か?」  無知な奴め…そう思った関口は、軽くため息を吐いた後、説明をして来た。 「細見町だよ。昔からある部落。あそこの奴等は、地元意識が強いからな。Kニュータウン何て洒落た物作って、さぞ機嫌を悪くしてるだろうからな。」 「そうなのか?田舎町なら、のんびりしてそうだけどな。」 「無知めっ‼」  関口はそのまま黙り込み、仕事に集中し始めてしまう。誠二は不可解に思いながらも、渋々仕事を始めた。
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