プロローグ -グロテスクな者達の本-

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プロローグ -グロテスクな者達の本-

 夕闇立ち込める教室で「一つ目の異人」に弟子入りしたあの日、俺はまだ小学四年生だった。  生々しい鉄臭さと、火薬の肺を()きむしるような臭いが鼻に付いたのを今でも覚えている。机や椅子はことごとくひっくり返り、砕け散った窓ガラスは鈍く光っていた。自席に置かれていた花瓶も、ゴミ箱に捨てられていた上靴も、どこに吹き飛んでいったのか分からない。赤黒く濡れた床に足の踏み場はなく、クラスメイトだった肉片があちこちに浮かんでいる。  不合理、無秩序、非現実。今でこそ好ましい言葉の羅列だが、怪異など信じていなかった当時の俺に、目の前の惨状を受け入れる余裕などあるはずもない。逃げるような真似(まね)はおろか、子供らしくワンワンと泣き喚くこともできず、ただじっとその場に立ち尽くすしかなかった。  そんな間抜けな俺を高みから見下ろしつつ、苦々しげに口元を歪めていたのが「一つ目の異人」である。教壇の上に悠然と構える彼は、人間としては規格外の長身で、黒く盛り上がった筋肉は鎧のよう。藍色の長髪が隙間風に吹かれ、炎みたいにユラユラと(なび)く。 「あの娘のために、ここで殺してやろうか?」  ピストルの照準をこちらに合わせながら、異人は腹立たしげに問いただしてくる。その銃口が数分前に火を噴いたのを、俺はしっかりと見ている。脳幹を撃ち抜かれた「少女A」が、どれだけ悲惨な末路を辿(たど)ったのかも。  だが、引き金はついに最後まで引かれなかった。異形のガンマンはあからさまな失望を顔に表し、静かに撃鉄を戻す。そうして不要になった凶器をホルダーに収めると、敵意剥き出しの声でこう言い捨てる。 「……お前は人間失格だ」  何も事情を知らない者からすれば、彼の一言はある種のジョークのように聞こえるかもしれない。大虐殺の元凶が己の罪を棚に上げ、子供に説教を垂れている、と。  だが、そんな表向き理不尽な評価に対して、俺は何も言い返せなかった。何十人もの子供を殺害した「一つ目の異人」よりも、それを依頼した「少女A」よりも、この俺が何倍も最低で残忍で、おまけに救いようがないほどだったからだ。 「……せめてこれを読め。読んで人間の在り方を学べ」  もはや怒る気力も失い、最上の軽蔑と憐憫を片目に含めたマレビトが、一冊の本を差し出してくる。黄ばんでボロボロになった表紙には、『ワインズバーグ・オハイオ』と書かれていた。 「Be Tandy , little one(タンディになれ、小さき者よ)」  初めて耳にするネイティブの英語は異質極まりなく、その半分も聞き取れない。もっとも、当時の小学校のカリキュラムに英語が導入されていたとしても、やはり俺は「タンディ」という言葉の意味を理解できなかっただろう。  あれから長い年月が()ち、俺は大学生になった。正確には、公募推薦で一足早く志望校に合格し、高校最後の春休みを堪能している。下宿先の怪アパートはトラブルの宝庫だが、との暮らしは存外楽しい。「一つ目の異人」との師弟関係も健在だ。  だが、俺は未だ「タンディ」には成れていないし、「タンディ」に出会えてもいない。
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