“らしくない”

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「知里ちゃんに話したの?」  先輩は汗を拭って、短く私にそう問いただした。 「咲にバレたらどうするんだよ。俺、どうなっても知らないよ」  陽介先輩は早口になっていく。その怯えた様子を見て、私はあることに気づいた。  この人は、コンクールが終わっても咲先輩とは別れるつもりはないんだ。  あの優しい先輩が嘘をつくなんて、と信じたかった。けれど、彼は今、どうやってこの場を取り繕うかということしか考えていない。コンクールが終わっても、私は【陽介先輩の彼女】というスポットライトに当ることはない。選ばれなかった、それは怒りよりも先に悲しみと一緒にやってくる。涙が出そうになるのを堪えて私は背伸びをした。どうにかしてでも、自分を選んで欲しかった。咲先輩には絶対できないことをしてでも、こっちを見てもらいたかった。私は無理やり陽介先輩にキスをする。 「好きです、先輩」  何度もキスを繰り返す。先輩は初めは強張っていたけれど、徐々にほだされていったのかゆっくりと解れていく。陽介先輩は優しい、けれど、こうやって人に流されやすいところがある。それは短所ではあるけれど、私はそれを利用するし、その欠点すら愛おしい。  何度目かの口づけを交わしている内に足音が近づいてきた。陽介先輩の体がびくりと震えて私から離れようとする。けれど、私は飛びつくように腕を彼の首に回した。陽介先輩はバランスを崩す私の体を抱き留める。まるでカップルがいちゃついているかのような体制になったとき、ドアが開いた。 「……陽介?」  咲先輩が陽介先輩の名前を呼ぶ。私はグッと強く唇を押し付けて、横目で咲先輩の様子を見る。その表情は真っ白になったと思えば、次の瞬間、真っ赤になって目を吊り上げ私たちに近づいてきた。知里が私たちの事をかばうように手を伸ばしてくれたけれど、咲先輩は素早く腕を振りかぶって、コピーの束で強く私たちを叩いた。 「何で! 何してるの!」  咲先輩の叫び声がどんどん高くなっていく。何度も私を叩いたと思ったら、急にその手を止めてまた真っ白な顔で立ち尽くしていた。私は呆然と咲先輩を見つめる。だって、あの優しい咲先輩に叩かれると思わなかったから。 「何で……何でこんなひどい事するの!?」  叫んだ咲先輩はその場にうずくまり、甲高い声で泣き始めた。いつもなら美しいと思うそのソプラノが、今は黒板を引っ掻くかのような不快な音と同じように聞こえてくる。それがうるさくて、私はゆらゆらと部室を出た。体に叩かれた痛みがまだ背中のあたりに残っている。とぼとぼと廊下を歩くと、部室のドアが開く音が聞こえた。私は期待を込めて振り返る。もしかしたら、陽介先輩が私を選んで追いかけてきてくれたかもしれない! 「なんだ、知里か」  私が明らかに肩をがっくり落とすのを見て、知里は苛立ったのか眉を顰める。私のバッグを強く押しつけてくる。 「帰ろう」  少しだけ間を置いてから「うん」と返事をした。ゆっくりとした足取りで玄関に向かう。外はもう真っ暗だったけれど、私の心の中で広がる悲しさの方が絶対にその闇は深い。靴を履き替えていると、知里が口を開いた。 「結月ってそういうところあるよね」 「なに? どういうところ?」  話すのも億劫になっていく。重たい口を開くと、知里の目が暗く濁る。 「自分の方が他人より優れてるって過信してるっていうか、自分には何でもできる、万能だって思いこんでいるところ。結月の悪いところだよ」 「何それ」  アンタが私の何を知ってるの! と言い返そうとしたとき、大きな足音が聞こえてきた。振り返ると、まるで鬼のような形相をした咲先輩がこちらを睨んでいる。大股で踏み込んできたとき、私はまた叩かれるんだと思った。とっさに身を守るように構えた。広い玄関に大きな音が響く――けれど、私の身には何も起きていない。先ほどのような強い衝撃も痛みも感じない。恐る恐る目を開けると、目の前にいたのは荒い呼吸を繰り返す咲先輩と、頬が真っ赤になった知里だった。 「アンタまで!」  咲先輩の怒りの叫びと、知里の真っ黒な瞳を見た瞬間、私はあることに気づいた。 「まさか、知里も……?」  知里も陽介先輩と付き合っていたの? それを聞くよりも先に知里は大きく息を漏らした。 「あーぁ、バレちゃった」  悪びれた様子はない。うつむいたと思ったら、髪を振りながら顔をあげる。今まで見たことのない知里の表情。不敵に口角をあげて、妖しく笑う。その顔を見た時、いつもの知里らしくないなと心のどこかで思った。  知里はどこか悲しそうに呟いた。 「私も選ばれなかったんだ」
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